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そう声をかけると、父親はオルシアに中に入るように示した。病院から何人か大人が駆け出してきて、急いで物を中へ運び始める。子どものオルシアが出来ることは少ない。父親に促されるままに、玄関へ戻る。すでに雨は強く、オルシアの肩はびっしょりと濡れていた。
「オルシア!」
しかし戸を閉めようとしたその時、ぎりぎりで、オルシアを呼ぶ声が聞こえた。聞こえる筈のない声だ。彼は不審に思う。父親は勿論、父の病院で勤める誰もが、この村に住む誰もが、彼の名前を呼ばない。――二日前に出会った、『彼』を除いては。
早く戸を閉じて、と顔をしかめる大人を押しのけて、オルシアは再び外に出た。広場の上空にだけ、もう一段、薄い雨雲が重なっているように見えた。その雨粒が、彼の肩を叩く――しかし。
「濡れない……」
「オルシア!」
再び、青年がオルシアの名前を呼んだ。
「どうしてここが?」
「鏡を追いかけてきただけだ」
言って、青年はオルシアの肩をひしとつかんだ。
「オルシア、お前、何回呪文を唱えた」
「え?」
「一回や二回じゃないな、そうとう何度も呼んだんじゃないのか。ヴェンニと」
「えっと……」
思い出せ、とゆすられて、オルシアは考えこんだ。何度か。何度も。心の中で、呼んだかもしれない。オルシアは首肯した。
「くそ、ヴェンニは古来の術式だ。意味をたいして掴んでいないお前でも使えたんだろう」
「あの、つまり?」
「呼ばれて、来ている」
「なにが?」
「なにかが」
青年は振り返り、雷鳴轟く東の方向を見つめた。もはや、彼の気脈である雨雲など些細な存在だった。ただ巨大な兎だけが、やはり異様に、青年の傍に座り込んでいた。
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