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二歳のころ、父親が抱き上げてくれたのを、オルシアは覚えていた。その話を父親にしたことが一度だけある。記憶の定着はそんなに幼い頃からは行われないはずだ、と彼は眉をひそめた。自分の愛情が幼い子供に記憶されていることは、彼にとってひどく恐ろしいことだったのだ。
オルシアはこれ以上なにも言ってはいけないと察し、ただあの二歳の誕生日の日に、母親がまだいた頃、三人で黄色いキャンドルをともして笑顔でケーキを焼いたこと、外科医のくせに不器用な父が装飾に失敗して母の機嫌を損ねたこと、そういったささやかなエピソードから感じられる幸福感だけで、この先の人生をまかなっていこうと決めた。そんな詳細な思い出を、語れば語るほどに父はオルシアを嫌いになるだろうし、何より父はきっとキャンドルの色など覚えていない。どれほどオルシアの記憶に鮮麗に残る、幸せを象徴する黄色だったとしても。
五歳の誕生日を迎えるまえに、オルシアは読み書きをほぼ覚えた。遊んでくれる友達がいない分、たくさんの本を読み漁った。周囲の子ども達よりもどうやら勉強ができるようだ、と自覚してからは、ひそやかに医師の道を目指し始めた。医師は、口では何と言っていようと、やはり子供には同じく医師になってほしいものだと、そう書いてある新聞記事を読んだことがあったために。いま父親がどう思っていようと、とりあえず「なれ」と言われることがもしあったなら、その要望に応えられるようにしておこうとオルシアは考えた。たとえ全てが無駄になったとしても構わない。その日がもし来たとき、「なれません」と答えるしかない不甲斐ない自分になることが怖い。
そんな動機によって、彼は勉強家だった。べつに、勉強が特段と好きだったわけではなかったし、人の体を切ったり縫ったりするなんて恐ろしいことだとも思っていた。医学にはなんの興味もなかったが、勉強していますという顔をしていると、周囲の大人たちもなんとなく距離を置いてくれるので楽だった。少なくとも、ボール蹴りをする同年代の子ども達の輪に、入れないのに傍で見ているよりは、ずっと楽だった。
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