5. 黒猫の足跡

2/5
前へ
/50ページ
次へ
 ずっと母さんと二人で暮らしていたのに、小学校に上がる前、俺は父親だと名乗る男に引き取られた。その日は俺の六歳の誕生日で、母さんは、泣いていた。  俺は母さんが大好きだったから、泣かせた男のことを子ども心に憎んだ。連れて行かれた屋敷は俺が想像もできなかったくらいに大きく、出される料理は豪華で美味しかったけど、それより母さんがいるあの小さな部屋の方が良かったし、母さんが作ってくれる料理の方が良かった。反発して、暴れて、そうしていたから、親父だと名乗る男、ヴェネリオには怒鳴られることが多かった。学校にも行かせてもらえず、屋敷から出ることも制限された、足りているけど不自由な生活。ヴェネリオはその時もう他の女と結婚をしていて、その女は俺を汚れたものを見る目で見ていた。そいつと屋敷の中で会わないように、俺は部屋に閉じこもって。  嫌で、嫌で、毎日泣いた。与えられた部屋で縮こまって、誰も受け入れず。  そんな俺の部屋のドアを叩いてくれたのが、祖父さん、――フランコ・サクラーティだった。  フランコは頑なな俺に根気強く語りかけ、いくら拒絶されても次の日には笑顔で会いに来た。いつも洒落た服を着て、楽しい話を携えて。お前の親父も酷いことをするものだな、まあ私の息子だが、と俺に寄り添ってくれた。初めは「こいつもヴェネリオと同じだ」と俺も心を閉ざしていたが、次第にその明るさに救われて。絶望的な世界の中で、フランコだけが唯一の光になった。  フランコはいろんな話をしてくれた。自分が社長を務める「サクラーティ」の話が、やはり一番多かったように思う。俺はよく着せ替え人形にされて、新作の服だの構想中の色合いだのを試された。嫌ではなかったし、着飾られた俺をフランコは言葉を尽くして褒めてくれたから、その時間は楽しかった。それから、自分が若い頃に行った場所の話もしてくれた。一番のお気に入りはヴェネツィアだと言っていた。理由を訊くと、そこには素晴らしい出会いがあったのだと笑っていたが、誰と出会ったのかは終ぞ教えてくれなかった。惚れた女でもいたのだろうか。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

384人が本棚に入れています
本棚に追加