5. 黒猫の足跡

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「昼食の時間に、また来よう」  それだけ言い残して、本当に部屋を出て行った。ネロはその背中をぽかんと見つめていたが、やがて自分の膝を抱えて、頭を落とす。下を向くと、今しがた見た夢の内容を思い出してしまって、目が重たかった。大好きだった母親、その死、辛かった屋敷での生活と、唯一の光、フランコ……。  ルカがいない部屋で、少しだけ泣いた。昔から涙腺は弱い。だけど一人でヴェネツィアの地に立った時に、ここで強く生きなくてはと決意をして。それから滅多なことでは泣かなくなった、その筈なのに。  ルカを追い払ったのは、せめてもの矜持。あの男を見ていると、何故だか今は亡き祖父フランコを思い出してしまうのだ。甘えたい、守られていたい。そんな弱い部分を自ら曝け出しそうになって、必死で目を背けている。フランコも老齢だった。そのせいだろうか。顔は似ていないけれど、触れてくる指の感触が酷く似ている。  温かさを、優しさを、錯覚しそうになる。あの男は理不尽な監禁者だと自分に言い聞かせようとして、ベッドサイドに残された皿とシリアル、数種類の飲み物が目に入って邪魔をした。  足りているけど、不自由な暮らし。これはヴェネリオと同じじゃないかと思う。それなのに、訪れてくる男は、フランコと同じ、自分に寄り添ってくれる人。  分からなくて、泣いた。いつまで囚われているのだろう。こんな生き方しか許されないのか、やっと逃げ出せたと思っていたのに。  自由に思うままに振る舞いたいだけなのに、どうして邪魔をされるのだろう。  泣き濡れた目で、窓の外を見る。憧れた広い世界、自由な手足で動き回れる美しい町。  今日のヴェネツィアは、雨だった。
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