傘に隠れて(2)

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 誰にでも尻尾を振って一夜の宿と飯を強請った。街の構造を頭に叩き込み、もし追手が来ても逃げられるように、この水の都を縦横無尽に移動できるゴンドラ乗りとも親しくした。男を誘う言葉を、好かれる仕草を必死で覚えて、自分の価値を高めていった。  徐々に、自分が分からなくなって。見知らぬ相手に淫らに腰を振って見せる自分に吐き気がしたり。それでも遊び慣れた色狂いを演じて。この地に来てから暫く経って、「黒猫」なんて呼ばれるようになって。  そうやって生きてきた。今まで、ずっと。 「自由にして、いいの……?」  信じられなくて、問い返す。  ルカは軽く、本当にあっさりと、頷いた。 「もちろん。フランコはお前に託した。どうしようがお前の自由だ。それに、これでサクラーティに怯えることもない。ヴェネツィアに留まるもミラノに帰るも、好きにすればいい」  何処に行ってもいい。  何をしてもいい。  与えられた無限の選択肢。ネロは言葉を失った。  それから暫く、ネロは黙々と絵画や彫刻に被せられた布を取り払っては、フランコが残したものを堪能した。特に絵画はじっくりと時間をかけて鑑賞する。筆の一つひとつを追うように、そこに愛した祖父を見るように。  ルカはその熱心なうなじを追う。時にひょいと横顔を覗き込み、今までとは違う星が籠った瞳に微笑んだ。今のネロは、ルカが見たことのない、「楽しそうな」表情をしていた。  いくつかの絵画を見て回って、同じように布を取り去った一つ。  ネロは思わず息を呑む。  そこに描かれていたのは、花の揺り篭で眠る黒髪の少年――幼いネロだった。 「フランコはお前を愛していた」  柔らかな色彩に包まれた自分に釘付けになる彼に、ルカは優しい声で囁く。そっと肩を抱いてもネロは何も言わなかった。同じ目線になって絵画を眺めてみると、少年の血色のいい頬や桜色の唇、ふっくらとした指がよく見えた。  ネロは指を伸ばして、それらをなぞる。 「……泣いてた」 「ん」 「泣いてたんだ。きっと、フランコが見ていたのは、俺の泣き顔……」  爪先が追ったのは、そこには描かれない、涙の線。
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