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「……俺の機嫌が良くなる話?」
首を傾げるネロに、ルカは意地の悪い笑みを浮かべながら、机の上に置かれたスケッチブックを一つ手渡した。中を見ていいのかと問うこともなく、ネロは表紙を捲る。中に描かれていたのはやはり新作のスケッチだった。その内のいくつかを、目の前のマネキンが着ているのである。
ルカは黒のトレンチコートを羽織ったマネキンを一つ、軽く叩いた。
「ネロ、モデルをやらないか?」
「モデル?」
「ああ。来春のカタログだ。――サクラーティも必ず見るだろう」
付け足された言葉に、ネロはぱちりと目を見開くと、
「……いいね」
ゆっくりとルカと同じような笑みを浮かべてみせた。
あれからネロは一度だけ、ヴェネリオと顔を合わせていた。誤解があるかもしれないから取り敢えず話をしてみろ、とルカに説得されて応じたのである。結局のところ、何かが劇的に改善されたということもなかったが、ヴェネリオはその口でネロに九年間の軟禁状態を強いたことを詫びた。自分がサクラーティの隠し子であることは公言しないようにと釘を打つ一方で、今後一切、サクラーティの干渉によってネロの心身の自由を脅かすような真似はしないと誓った。
ネロは黙って父親の話を聞いていたが、それがプライドなのか、声を荒げたり感情を爆発させたりすることはなかった。しかしその日は帰ってから、今まで頑なに見ようとしなかった「サクラーティ」のカタログに目を通しながら、あれが悪いこれがダメだフランコならこんなことしないとルカに向かってたっぷり一時間はヴェネリオ経営になってからの「サクラーティ」について不平不満をまき散らしていたから、それが自分の中での落としどころだったのだろう。
その後に残ったのは怒りでも憎しみでも恨みでもなく、純粋な「嫌い」という感情だけ。
「それって発表までヴェネリオは知らないよね?」
「もちろんだ。ライバル社の広告塔に息子が起用されたことを聞けば、あの若造はどんな顔をするかな」
「最高。俺の素性はちゃんと伏せてくれる?」
「それも、もちろん。……私がヴェネツィアで見つけた恋人と書けば問題なかろう?」
自信満々に言ってのけるルカの腿を、ネロは脚癖悪く蹴っ飛ばした。
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