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「値切ってきそうですね」
「離婚しないとなれば、あるいはな」
「どうするんですか」
「どうもしないさ。これまでの分はちゃんとしてもらう」
実際、望んだ成果が得られなかったケースではそういうことがよく起きていた。所長や小林はそんなとき、値切られた分の守秘義務の範囲について滔々(とうとう)と依頼者に説明して聞かせる。秘密が担保されない暮らしや未来をちらつかされ、弱みの対価が決して安くないことを知った依頼者はじきに泣きを入れ、元の契約でやらせてくれといってくる。
「ふたりにはそれぞれ新しい人生を歩んでもらいたいもんですね」
「まったくだ」
通話終了のボタンをタップし、スマホをリュックのポケットへと放りこむ。
「そういや最近行ってないな……」
デブ猫アントニオの毛触りを思い浮かべながら高架を潜(くぐ)る。都市開発用地の札が立ててある空き地を横切り、十メートルかそこらをショートカット。築何十年かわからない倉庫が軒を並べる一角に立ち、そのうちのひとつのシャッターをおれはゆっくりと押しあげた。
「猫カフェの前にシャッター屋だな、明日は」
夜道を襲われた女の叫びみたいな軋みに対しての前向きな文句。膝上ほどの高さの隙間へ体を潜りこませ、開けたときの半分のスピードでシャッターを下ろした。
〝なんもあらへん〟
空耳か。息を殺し、耳を澄ませる。
〝酒ぐらい置いとけっちゅうに、ほんま〟
闇に聞こえる関西弁。空耳じゃないことを認識したおれは猫のごとく気配を消し、声のしたほうへと忍びよっていった。
〝しゃあない。チーズだけ貰(も)うて帰ろか〟
声の位置は特定できた。が、姿が見えない。暗がりに漏れる冷蔵庫の灯りが確認できているだけだ。
〝おお、ゴルゴンゾーラやんけ! ちゅうことはどっかにワインもあるかわからんの〟
姿なき声に怖れ慄(おのの)きながら、おれはわずかに開いていた冷蔵庫の扉を素早く、かつ力一杯に押した。
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