1991年(平成3年)9月

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女子プロレス━。 その名の通り、女性が試合をするプロレスである。 アメリカでは、すでに1930年代末には女性プロレスラーが存在し、男性プロレスラーによる興行の中で試合を行っていたと言われている。 日本では戦後間も無い1948年、東京都三鷹市の小さな道場にて進駐軍相手の興行としてスタートし、歴史的には日本プロレスの父・力道山(りきどうざん)が団体を創設するよりも前に存在していた。 ただし、その当時の女子プロレスは、主な試合会場が芝居小屋、キャバレー、ストリップ劇場などで、試合も対戦相手のガーター(下着)を奪い合う『ガーターマッチ』と言ったお色気を強調したものであり、現在開催されている女子プロレスとはかなり違うため、これをプロレスと呼ぶべきかは意見の分かれる所である。 この様な形で始まった日本の女子プロレスだが、力道山の「プロレスは女にできるものではない」という意向で圧力がかかり、1950年に警視庁から禁止令を出されて一時姿を消した。 1954年11月19日、在日米軍慰問のために訪れた世界チャンピオンのビルドレッド・パーク、ジェシー・ヤングら当時の全米トップ選手を招き蔵前国技館を始めとした大会場にて興行を行い、満員の観衆を集め大反響を得たため、それまでのお色気を強調したものから現在のプロレスに近い形が出来上がっていく。 1955年9月10日と11日、両国メモリアルホールで「全日本女子プロレスリング王座決定トーナメント」が開催されて、伊藤貞子&戸上勝美組が女子タッグ初代王者となった。 これを機にいくつもの女子プロレス団体が乱立したものの、これらは『日本女子プロレスリング』にまとめられ、最終的には現在の興行形態を作った『新日本女子プロレス(新女(しんじょ))』が女子プロレス団体として勝ち残る。 70年代後半に「キューティ・ペア」の登場により女性ファンの人気を集めブームとなり、それ以降も80年代の「フラッシュ・ギャルズ」などスター選手は女性人気を得ることとなった。 しかし90年代、そうしたスター選手の引退が相次ぎ、ブームは下火に━。 本章ではそうした状況の中、生き残りを賭けて戦い続けた女たちの姿を描いていく。
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