1958年(昭和33年)6月

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「というのが、俺の生まれた村の、言い伝えだ…」 (とこ)に伏せたまま大橋誠一(おおはしせいいち)は、途中何度も咳き込みながら、この長い話を親友である銀歯谷(ぎんばたに)宗介(そうすけ)に語って聞かせた。 昭和32年晩夏、東京・駒込(こまごめ)の、平屋の一軒家。大橋の一人住まいである。 それにしても、細くなってしまったな…。友人の腕や首を見つめて、銀歯谷は思った。 二人は早稲田大学文学部の同窓生で、現在、共に27才。卒業後、大橋は大学に残り、恩師の教授のもとで講師の仕事をしている。 一方、銀歯谷は風来坊で、大学を中退して海外を放浪、一昨年帰国し神田神保町(かんだじんぼうちょう)に探偵事務所を構えた。 再会を喜び合った二人であるが、昨年、大橋が病に倒れ、大学を休職した。末期の肺がんであるという。医師から告げられた余命は、一年。 そしてこの日、自分の生まれ故郷の事でお前に聞いてもらいたい話があると、銀歯谷は大橋に呼び出されたのであった。 大橋は続けるー。 「それから七年後、七十郎一家殺害の中心人物だった七人、これは娘を犯した七人なんだが、この七人とその家族が続けて、狂い死にした…」 人々は七十郎の祟りだと、恐れおののく。 七十郎の霊を鎮めるため村人がとった手段は、一家の住まいの跡地に(ほこら)を建て、その下の地中に七十郎の娘と同じ年頃の村の生娘(きむすめ)、いわゆる処女を一人、生け贄として埋めるというものであった…。 一家殺害の年から七十年に一度、村人は子々孫々に渡ってこの生け贄の儀を続けてきた。 七十郎の祟りと、七十年に一度の儀式。いつしかこの村は、「七十村(しちじゅうむら)」と呼ばれるようになった。 そしてこの儀式、何と630年後の江戸時代末期まで続けられたのである。
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