1923年(大正12年)9月

20/22
1221人が本棚に入れています
本棚に追加
/1815ページ
「お母様ー!」 今の爆音に驚き、寝室に紘子が飛び込んできた。私立のお嬢様学校に通う、女学生である。 そこで、16才の娘が見たものはー。 母と見知らぬ男が、ベッドでそそくさと服を身に着けている姿であった。 「え…、誰?」 娘は茫然と、その場に立ち尽くす。 母がこの男と事に及んでいたのは、まだそうした経験のない紘子の目から見ても、明らかであった…。 慌てふためく定吉を尻目に、貴子は落ち着き払っている。見られた以上、今さらジタバタしても無駄ー。 「紘子さん、説明するから、そこにお掛けなさい」 パジャマ姿の娘に、妖艶なネグリジェを身に着けた母が近寄る。 「イヤ、来ないで…。お母様、不潔よ!お父様のご留守に、そんな男とー」 紘子は母をキッと睨み付ける。 そして泣きながら、寝室を飛び出して行った。自分の部屋に戻ったのだろう。 「おい、どうするんだ…?」 恐る恐る、定吉が尋ねる。亭主の耳に入ったら、大変だ…。 「フン、大丈夫よ。夫に言いつけるような度胸、あの娘にはないわ」 そう言って貴子は、夫には内緒の煙草に火を点けるー。 「それより、困ったのは空襲の方だわ…。あれきり、近くには爆弾は落とされていないみたいだけど」 耳を澄ますと、遠くに爆音が聞こえる。事実この時、墨田区や江東区といった人口が密集している下町は、すでに火の海だったのである。 貴子はカーテンの隙間から、上空を眺めた。東の空が、赤く染まっているー。 「この辺りには敵の飛行機は、もういないみたいね…」 そこでふと、庭先に視線を落とす。するとー。 何やら黒く大きな物体が、のそのそと芝生の上を動き回っている…。
/1815ページ

最初のコメントを投稿しよう!