1923年(大正12年)9月

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「そんな所にいないで、入ってらっしゃい」 扉の向こうの娘に、母が声をかける。 紘子は、うつむき加減に扉を開けた。母とその愛人とは、目を合わせずにー。 紘子が入ると、貴子は体当たりを繰り返す化け物を見つめながら、定吉に尋ねた。 「あの調子だと、玄関が破られるのは時間の問題ね…。紘子を勝手口から逃がす、というのはどう?」 定吉は舐め回すように紘子を見て、答える。 「無駄じゃな。あやつは生娘を、匂いで嗅ぎ分ける。外に出れば、すぐに気づいてそっちに向かうわ。それより…」 男の表情に、卑猥な影が浮かぶー。 「ワシと体を合わせるよう、娘に言え。化け物に喰われないようにしてやるわ…」 定吉は紘子に近寄る。 「イヤ…」 紘子は後ずさる。 「怖がらんでええ…。ワシが助けてやるー!」 定吉は飛びかかり、そのまま絨毯に娘を押し倒した。 「イヤ━━━━━━ッ!!」 紘子は叫び、必死に抵抗する。しかし物凄い力で抑えつけられ、身動きできない。 犯されるー。 そう思った瞬間、ゴンという鈍い音ともに男の力が抜け、自分の上に突っ伏した。 その背後には、熊の置物を手にした、母の姿がー。 倒れた定吉の背中に、貴子は言った。 「アンタはアタシの男でしょう…。娘を抱く事は、許さないー」 ここで定吉の思い通りにさせれば、紘子は助かるかも知れない。しかし娘も、自分と同じ人生を歩む事になる…。 「ごめんなさいね、悪い母親で…。ここにいて化け物に喰われるか、一か八かにかけて勝手口から外に逃げるかー。好きな方を選びなさい」 女として、人間として、化け物に喰われない事が幸せとは、限らない。 貴子は思う。これが娘にしてあげられる、最後の事…。 紘子は、飛び出して行ったー。 途端、玄関への体当たりの音が止む。 そして貴子は、遠くに娘の叫び声を聞いた…。 それからしばらくして、米軍機から投下された焼夷弾が、貴子の屋敷に命中した。 炎上し跡形もなくなった屋敷から、フラフラと出てくる人影がある。 定吉であった…。 そしてー。 化け物の消息は、ようとして知れない。
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