1984年(昭和59年)8月

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「え、でも…」 涼子の言葉に、私は困惑の表情を浮かべます。 姉御(あねご)肌の彼女は昔から私に、いろいろなものを譲ってくれました。 キャラクターが印刷された鉛筆を文房具屋に買いに行き、目当てのピンク色が1本しかなかった時も、読みたかった少女漫画がクラスメートから回ってきた時もー。 そして今、恋して止まない栄治との初体験の順番をも、私に先を譲ろうとしているのです。 「いいから、早くしなさい。アタシ、隣の部屋に行ってるから」 そう言った涼子の目に、いつも物事を譲った時に一瞬浮かぶ悲しみの色があったのを、私は見逃しませんでした。 彼女だって、本当は先がいいのです。でもー。 いつものように黙ってうつむいていれば、涼子はまた先を譲ってくれるのではないか…。 その時の私に、そんな期待といいますか、計算があったのは間違いありません。 そして案の定、事は私の思惑どおりに進んだのです。 「じゃあ、ちゃんと栄治に教えるのよ。いいわね?」 諭すように、涼子が言いました。 「終わったら、呼びにきてー。じゃあ栄治、頼むわね、知美のこと…」 「あ、ああ」 栄治の返事を聞くと、涼子はガラガラと戸を開け、部屋を出ていきました。 幼稚園の、一番奥の教室。 好きで好きでたまらない栄治と、二人きりになりました。
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