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「その日は塾の模擬テストがあるんだけど」
高校入試を半年後に控えた受験生の美咲は、姉の千里からの旅行の誘いに対して、こう答えた。
入試はまだ先の話だが、県内有数の進学校を目指している美咲に、遊んでいる暇はない。ましてや母と姉との温泉旅行など、自分の受験が終われば、いくらでも行けるではないか。
千里は、そんな妹の考えを察していたが、ハイそうですか、と引く訳にはいかない。
「でもね、この日はお母さんとお父さんの結婚記念日なのよ、20回目の。お祝いしてあげたいじゃない。アタシも会社に拝みこんで、何とか休み取ったの。そりゃ、アタシとお母さん二人で行ってもいいけど、そうなるとお母さん、美咲ちゃんが行かないなら私も行かない、って言うわよ、絶対。だから、ね、お願い」
姉に手を合わせて懇願され、美咲は困惑した。姉の言うように、母の性格からして、娘二人が揃わないなら自分は行かない、と言うに違いない。
母の真梨子は、夜の仕事を除く様々な仕事を掛け持ちして、女手一つで二人の娘を育ててきた。そして上の千里が高校を卒業して就職し、給料の半分を入れてくれるようになったため、家計はかなり楽になっている。
千里は今春、高校を卒業して、大手化粧品会社に就職した。デパートの化粧品売場に配属されたため、普通に土日勤務がある。従って今回、母の結婚記念日祝いの温泉旅行のため土日に休みを取るのは、かなり困難な事であった。
父が亡くなったのは、千里が3才の時で、美咲はまだ母のお腹の中にいたという。15年前の事で死因は事故死だったと母は言うのだが、詳細は一切、いまだに話してくれていない。
千里は父の事を、まったく覚えていない。知っている父の顔は、すべて写真の中である。その写真も、母や自分と一緒に写っているものは1枚もない。下北沢の小劇団で舞台役者をしていたという父は、写真で見る限りでは、目鼻立ちの整った、涼しげな容貌の美男子であった。
自分たち姉妹の顔はこの父に似ていると、千里は思う。事実、高校時代、千里は何人もの男子に告白されるほど、よくモテた。美咲は優等生タイプで、今は化粧っ気もないが、磨けば光るだろう。
母は一重瞼で鼻も低く、決して不細工ではないが、地味な顔立ちである。母には申し訳ないが、自分たちが母に似ている所は、何ひとつなかった。
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