1999年(平成11年)10月

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宿舎への帰り支度を始めていた真実が様子を見に行くと、黒岩が助監督を怒鳴り付けていた。 「馬鹿野郎!何がなんでも撮るんだよ!」 聞くと、こういう事であったー。 美枝子と真実のシーンが思いの外、順調に撮れて気を良くした黒岩が、当初の予定にないカットを撮ろうとしている、というのだ。 何でも、それは上空を飛ぶウミネコが、トンビに捕らえられる場面だという。 逃亡を決意する母娘だが、結局最後は巨大な権力に追い詰められ死を迎えるという結末を暗示するために、このカットを母娘のやり取りのシーンに挿入すると言い出したのである。 言うのは容易いが、野生動物の捕食の場面の撮影は至難の業である。機材や人員等、それなりの準備が必要だ。 助監督は日を改めての撮影を進言したが、黒岩はガンとして聞かない。別の日だと、先ほど撮った母娘のシーンと、空の色が変わってしまうと言うのだ。だから頑なに、撮影を強行しようとしているのである。 たしかに、上空では数羽のトンビが、海面近くのウミネコの群れに急降下を繰り返して、捕食を試みている。 しかし地元の人の話だと、トンビがウミネコを捕らえる事など、滅多にないらしい。 ウミネコはトンビから身を守るために、あえて海面近くを飛んでいるのだという。こうしておけばトンビは海面に激突するのを避けるため、ウミネコの目前でスピードを落とさざるを得ない。ウミネコは楽々逃げられる、という訳だ。 「よし、それなら漁師に頼んで船を出してもらえ。ウミネコを海面から追い払わせろ」 黒岩は助監督に命じた。 スタッフのこうしたやり取りを、真実は美枝子に報告したー。 「そう。でしたら朝井さん、あなたは宿舎に戻っていなさい」 「え、澤村さんは、どうされるんですか?」 「わたくしは、その撮影に付き合います」 美枝子はこう言うと、出演者の控え所のテントから、吹雪舞う外へ出て行く。 「澤村さん…」 「裏方さんたちが頑張っているのに、わたくしが帰る訳にはいかないわ」 女神のような笑みをたたえて、美枝子は言ったー。
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