175人が本棚に入れています
本棚に追加
あまりの美味しさにほわほわと柔らかな雰囲気を醸し出すユールヒェンの頭をアーサーが撫でようと手を伸ばした時、凛とした声がアーサーの名を呼んだ。
声の主を探してみると、前から1人の女性が歩いてきた。クラシカルなロングのエプロンドレスを着用し、くすんだブロンドの髪を後ろで編み込んで纏めている。上手くまとめられ後れ毛1本も無いが、編み込んだその複雑さから相当な長さであることが伺える。
女性はアーサーの前に立つと、スカートをつまみ上げ、品のあるお辞儀をしてみせる。
「お帰りなさいませ、アーサー様、皆様。ご無事で何よりでございます」
「ただいま、モチヅキ」
モチヅキ、と呼ばれた女性は、ユールヒェンの存在に気が付くと同じように深深と頭を下げた。美しい女性だ。凛々しい瞳がユールヒェンを射抜き、ユールヒェンもつられて頭を下げた。
「貴方様がベルンシュタインお嬢様でございますね。アーサー様から仰せつかっております。
キルガーロン家当主、アーサー様の随伴。モチヅキ・カケイと申します。本日午後より女王陛下と謁見なされると伺いましたので、僭越ながらこちらでドレスをご用意させていただいております。アーサー様、律様、どうぞお召し換えくださいませ」
女王陛下と謁見ができるのはアーサー、ユールヒェン、律のみ。
ミグリア達がここに共に来た理由は、護衛もあるが1番は物資の調達である。
スペイド国は世界を支える4つの大国の一角。大通りにずらりと並ぶ屋台には、新鮮な食材は勿論の事、長期保存が可能なものや船の畑に使える肥料、果ては武器に衣服に骨董品にと品揃えが豊富なのである。輸出入も盛んで、「スペイド国の屋台に売っていないものなんてないのでは?」と言われるほどである。
そんな街をキラキラとした目で眺めるユールヒェンを連れ回したい気持ちをぐっと堪え、ミグリア達は3人を見送った。
様々な香りが漂う大通りを少し歩いて、屋台の横を抜けていくと住宅地に入る。表通りの騒がしさとは打って変わって広々とした静寂が辺りを包み込んだ。緩やかだが長い長い坂を登り、城のある中心地へ向かっていく。歩みを進めていくと、どんどん建物が豪華になっていく。城に近ければ近い程土地の価値は高いらしい。
高台に設置された、街並みの奥。
そこには、巨大な門と屋敷があった。
美しく整頓された庭には様々なハーブや花々が咲き誇り、池には錦鯉が数匹泳いでいる。丁寧にカットされた芝生に愛らしい動物の形をしたガーデンアート。石畳が緩やかにカーブを描きながら玄関へと向かっていた。
鍵を空け、招かれるままについて行く。
石畳の上を歩き、玄関の扉が金属がこすれる音を立てながら開く。中に1歩入ってみても中は暗く、先程からまるで人の気配が無い。
住宅地の一等地、そしてこれほどまでに巨大な屋敷があれば、その資産は相当のものだろう。何十人もの使用人が居てもおかしくないというのに、この屋敷の中は静寂が拡がっていて、人っ子一人居なかった。
それなのに、手摺にもオブジェにも埃が募っている様子が無い。まるで、本当は先程までここにたくさんの人が居て、扉を開けた途端に消えてしまったかのようだ。
「人がいない…」
「ここに住んでいるのは俺とモチヅキだけだ。…まぁ、俺はたまにしか帰ってこないから、実質モチヅキ1人だな」
望月が屋敷の中のカーテンを開けた。陽の光が差し込み、指先で火の玉を作ってふぅっと息を吹きかけた。火の玉はふわふわと浮いて分裂し、天井に吊り下げられたシャンデリアに灯る。あっという間にあたりは明るくなり、その全貌を顕にした。
落ち着いた色のカーペットと、派手な金の装飾がキラキラと輝いている。玄関に入ってすぐ大きな広場になっており、目の前に階段があってそれぞれの廊下につながっていた。
「時間が押しております。ベルンシュタインお嬢様、どうぞこちらへ。アーサー様と律様はお部屋でお召換えを」
ユールヒェン1人が案内されたのは、階段を上がってすぐの部屋。大きなベッドに壁の半分はあるクローゼットを観音開きして、その中から1着のドレスを取り出してユールヒェンに見せた。
グレーがベースのプリンセスラインのロングドレスだ。少しだけ濃度の高い色合いで華柄が施され、光に当てると微かに光っており、エレガントなデザインだ。袖口のラッフルカフスがひらひらとして可愛らしい。
ユールヒェンのスカーフをするりと抜き取った時、望月は息を飲んだ。その音にどきりと心臓が跳ねる。おかしいと思われたのだろう、ユールヒェンは俯いて手で銀髪を隠そうとした。
「…失礼しました。さぁ、ベルンシュタインお嬢様、着替えましょう」
髪を櫛でとかれながら、ユールヒェンはおずおずと望月に話しかけた。
「あの…警備が、とても厳重で」
「左様でございますか。それはそれは大変お疲れ様でした」
「あんなに厳重にするなんて、なにか理由でもあるんでしょうか」
そう尋ねた瞬間、ほんの刹那に鏡越しに望月の瞳が揺らいだのが見えた。すぐにでもそのポーカーフェイスを取り戻し、飄々とした印象で受け答える。きっとその瞬間を見逃していたら、それはとても自然な受け答えだっただろう。
「女王陛下は御高齢なのです。もう6年は前になるでしょうか、国王陛下が御逝去され、残された御二人の王子は王位を継承するにはまだ早く、御長兄のスピート王子、もしくはご令弟のサエル王子のどちらが継承をされるのかすらも決まっておりません。現在は女王陛下お一人でこの国を支えている状況なのでございます。兵士としては、単なる入国ならまだしも女王陛下と謁見が行われるともなれば、警戒も厳しくなりましょう」
村で引きちぎって以来殆ど整えていないボサボサの髪をなんとか撫で付け、長い前髪を耳に掛けさせて花のピンを刺した。ユールヒェンの顔が顕になり、その深い紫の瞳が光を映してより色が綺麗に映る。
その上から優しくスカーフを巻き付け、ユールヒェンの銀の髪を隠した。
望月がドレッサーに櫛を置いた時、扉が軽快な音を立てる。
「アーサー様方も終えられたようですし、参りましょう」
最初のコメントを投稿しよう!