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翌日。
ユールヒェンは、妙な気配を感じて目を覚ました。東側、コロン村とは少しズレた方角から、嫌な予感がする。悪魔と対峙した時程強烈では無い、しかし微かな、例えるならば、悪魔は視覚、聴覚、ものによっては触覚で感じとることが出来る雷のようなもので、今回のは微弱な、指先が少しピリッとする程度の静電気のような。
ここはキルガーロン邸。スペイド国へやって来た9人は買い物が思いの他長くなり、夜は危ないから、と望月に引き留められ一泊する事になったのだ。ユールヒェンはドレスを着替えた部屋に再度案内され、そこの窓から外を覗いた。
まだ時刻は4時。空が漸く白み始めた頃である。まだまだ冷える季節、ユールヒェンは薄手のロングTシャツの上にストールを羽織り、キルガーロン邸を飛び出した。
外に出て見れば、先程よりも少しだけ強く感じる。勘違いじゃない、何かがある。否、何かが来た。もっとその気配に近付きたくなって、ユールヒェンは墓碑へ、向かう細道を走った。
墓碑の前には、昨日には無かった大きく見事な花束が置かれていた。辺りに飾られた花束のどれよりも大きく立派で、とても寂しげな雰囲気を纏う花束。そのずっと奥から、その気配はした。
「……悪魔、いや、違う…。呪い…?」
呪いは感染する。
もしかしたら、呪われた者がこの国に立ち入ったのかもしれない。入国者が厳重に管理されたスペイド国ならまだしも、その周りの小さな村であればおかしくない話である。
これを放置すれば、確実にその村は呪いに汚染される。
「私みたいな人が、また生まれる…」
幾ら幸せな日々を過ごそうと、ユールヒェンの脳裏には何時までもこべり着いている。当然だ。たったの2週間足らずの優しい温もりでは、17年の氷を溶かす事は出来ない。
だからこそユールヒェンは震えた。あんな風に苦しい思いをする人が、今目の前で生まれるかもしれない。そんなことは見過ごす事など出来ない。例え自分には何も出来なくても。地獄をこれ以上増やす訳には行かない。
「…アーサーに話そう」
ユールヒェンは来た道を全速力で戻った。
キルガーロン邸に戻ると、アーサーは既に起きていた。書斎で本を読んでいたようである。望月に居場所を聞き、少し乱暴に戸を叩いたユールヒェンを宥めながら、アーサーは手にしていた本を閉じた。
『……信じてくれる?こんな微弱な感覚、何より私なんかの言葉を。私は賢者の力が目覚めてすらないのに』
「あ、あのね、アーサー…信じられないかもしれないけれど…」
カタカタと手が震える。昔、何かを話そうとした時、嘘をつくな!と怒鳴り散らされ、顔面が真っ青に腫れるまで殴られた事がある。嘘では無い。嘘などついた事がない。それでも、信じて貰えるかどうかはその人次第だ。呼吸が荒くなるユールヒェンにアーサーは近づき、少しだけ腰を屈めて視線を合わせ、頭にそっと手を置いた。そのまま優しくユールヒェンの頭を撫でる。
「大丈夫だ。信じる。どうした?話してくれ」
世界一綺麗な翠は、真っ直ぐにユールヒェンを見つめる。
そうだ。
わかっている事だ。
『……この人は、いつも、私がして欲しい事をしてくれる。私をずっと、人として扱ってくれる』
「……あのね」
手の震えはいつの間にか止まっていた。
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