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ハッキリとした声にアーサーの方を見ると、ふっと口元を緩ませて、ちらりとユールヒェンに視線だけを送る。その穏やかな表情に胸がどくりと高鳴った。
そんな気の緩んだ表情をするなんて。
言葉の意味もわからず、ユールヒェンはただ首を小さくかしげる。その姿にまたふっと笑って、アーサーはユールヒェンに顔を向けた。
「これが落ちていた。お前のナイフだろう」
アーサーが懐から出したのは、あの場に置いてきてしまったユールヒェン愛用の小型ナイフ。柄の方を向けてユールヒェンに手渡されたそれを受け取り、大切そうにぎゅっと胸に抱き締める。
「あの場所に、瓶が2本割れた跡があった。色と破片の形からして…硫酸とアルコールか?お前はそれを武器に闘った。
この街に、危害が及ばないように。
違うか?」
確信のある言葉は、決して責め立てるような言い方ではなく、淡々と事実を述べる。
『気付いていてくれた…。私が、このナイフを大切にしていることも…』
「…でも、なにも出来ませんでした」
「ミグリアとヴェロニカに催眠をかけたのもお前だな」
「…ごめんなさい」
「責めているんじゃない。話は街の奴らから聞いた。…彼奴らが危険な目に遭わないようにしてくれたんじゃないのか。
ありがとうな。あいつらを、守ってくれて」
必死だったのだ。
意識を奪われる直前に、咳き込む2人を何とか助けたくて。出来たのは魔術の解除と催眠で眠らせる事。
そうすれば、ついてこない。きっと2人を守れると、思ったから。
「…私、賢者だって言われて、訳が分からなくて。でも、ラムスの頭を吹き飛ばした時、もしかしたらって思いました。でも、今回できなかった」
何一つだって、反撃出来なかった。
悔しくて目頭が熱くなる。思わず俯いたユールヒェンの頭を、手袋を脱いだ手でアーサーが優しく撫でる。
「最初はそんなものだ。お前はまだ賢者の力を解放出来ていない。
でも、立ち向かおうとした。それでいい。お前は充分立派だった」
一切ユールヒェンを否定しない。アーサーにとって大したことの無い言葉でも、褒められ慣れていないユールヒェンの心には深く深く染み込んだ。
自分を肯定されることが、こんなにも嬉しい事なんて。
「アーサー…さん…」
「あー…。ずっと言おうとは思っていたんだが、その敬語で話すのやめてくれ。敬称も要らん。敬語で話されるのは好きじゃない。他の奴らも同じこと言うと思うぞ」
「え、ごめんなさい…。あれ、でも律さん…」
「あいつは…元々あんな喋り方しなかったんだよ。…それはいい。これからゆっくり慣らしていけ。ほら、試しに俺を呼び捨てしてみろ」
唐突な無茶ぶりにユールヒェンは目をぱちくりとさせ、ややあってえぇ!とパニック。
『あ、憧れていた人を、呼び捨てにするなんて…』
逃げ場がないか無意味に辺りを見渡し、視線をそらし、まごまごとして少し。ようやくユールヒェンは小さく口を開く。その顔は真っ赤だ。
「あ…。アーサー…」
「おう」
名前ひとつ呼ぶだけで、心臓がどくどくとうるさい。緊張で体が震えるが、アーサーはまたユールヒェンの髪を柔らかくなでる。
頭をするする滑る手は、適度に重さがあって、暖かくて、少しウトウトしてしまう。
そこでアーサーは突然はっと息を飲み、ユールヒェンの頭から手を離してしまった。
「すまない。無神経だったか。触れられるの怖いんだったよな。癖なんだ」
「い、いえ!そんな事ないです!あ、…そんな事ない…」
アーサーの謝罪の言葉にやや被せるように食い気味に主張する。ユールヒェンから大きな声が出てびっくりするアーサー。そしてまた口角を少しだけあげて、なでなでを再開した。
「こんな事、してくれる人なんて今まで居ませんでし……居なかった。
その…ずっと、羨ましかった。ので、凄く嬉しい…」
です、を何とか呑み込んで。ユールヒェンは少しずつ自分の気持ちを吐露していく。
「私にとって触れられる事は、傷付けられることでしか無かった。アーサーの手は、とても優しい。誰かを守る為にある手は、こんなに暖かいなんて、知らなかった」
ミグリアの時みたいに。上手く伝えられなくても、どうしても伝えたい言葉は声に出すべきだ。
ユールヒェンはアーサーを見上げた。
その翠の中に自分がいる。
「ずっと、ずっと言いたかった。アーサー。
私を見つけてくれて、ありがとう…」
それじゃあ、おやすみなさい。恥ずかしさからユールヒェンはアーサーに一礼してぱたぱたと船内へ逃げていってしまった。
アーサーはその場に固まっていた。
ユールヒェンの頭に置かれていた手は空中に取り残され、ゆっくりとひっくり返す。そして、ユールヒェンの言葉を何度も繰り返し飲み込んだ。
「優しい…手?俺の手が…?」
何も無い筈なのに、その手が血に染っているように見えて。
「こんなにも、穢れた手なのに…?」
困惑するアーサーを慰めるように、そよ風が頬を撫でた。
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