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軽やかな旋律に乗って二人の耳に入ってきたのはピアノの音だった。
淀みなく、夕刻の陽の光に溶け入るようなその音色は木造の廊下を伝いこの部屋まで流れてくるようだ。美しい旋律は花の強い香と相まって、オレンジ色の世界の少年をより深く幻惑する。
「…ふ、ふふ……」
「…?」
男は笑っている。
「百年待つくらいなら、自分が死んででも逢いに行きたいって…そう思うのかな、人間って。好きな人が、出来たら………」
その言葉には、何処か人を嘲るような、それでいて……
「寂しい思いを、いつかしたんですか?」
少年の言葉は真っ直ぐだった。
自分でも驚くほどに。
「……」
しばし言葉に窮した国語教師だったが、すぐに答えは返ってきた。
「僕には寂しいという感情がわからないんだ。
だから、大丈夫だよ。」
「でも……寂しそうに、見えます………」
「それは君の気のせいだよ。」
「そう…でしょうか…………あの…」
「何?」
「あの本みたいに……あなたは……本当は誰かを………待っているんじゃないんですか…」
男の顔に陰が過ぎる。
このままでは何も知らないまま、何か大変なことになるのでは…いや既になっているのでは、という焦燥が普段無口な少年をいつにもなく饒舌にした。
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