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サウダー爺
大通ビッセの地下、
セイコーマートとアインズがあって、北洋銀行があって、
吹き抜けから柔らかな光が降る、待ち合わせに便利な場所で、
私はもうずいぶん前に別れた男の子を待っていた。
ここはもう建って20年近くになるのに、人が集う感じは、変わらない。
携帯番号宛にショートメールが送られてきたのは昨日のことで、
札幌に来ていて、明日東京へ帰るのだが、よかったら会えないか、
というようなことが書かれていた。
15歳年下の男の子だった。
着信したメールを見て、一瞬、アドレナリンが吹き出すような恐怖を感じ、
そして自分の五感が急に冴え出したような感覚に陥った。
懐かしさ、というのは、今にとどまりながら、
一気に過去に引き戻されることを言うのかもしれない。
それは7月下旬の週末のことで、特にアポイントを入れてもいなかった。
ギロチンを下ろされたような別れ方をした恋だった。
それでも、会わない、という理由が見当たらなかった。
「会う」と返事をした。すぐに電話がかかってきた。
●
緊張と、いい予感と、悪い予感がないまぜになったような心細さで、
私はロビーチェアに座り、自分のサンダルのつま先を眺めていた。
とろりとしたゼリーのような色を載せた、足の爪。
「……さん」
名前を呼ばれ、顔を見上げると、彼が立っていた。
ちょうど、彼と付き合っていた頃の私と同じくらいの歳だ。
スーツのジャケットを手に持ち、変わらぬえくぼの頬で、
にっこり笑って立っていた。
もうずいぶん会ってないから、ビッセの地下に来たらメールをする、
と言っていたのに。
私は遠くから見ても、やっぱり私のままだったのらしい。
朗らかに笑いながら、彼はそう言った。
「ねえ、俺、太った? 信じられる? もう40過ぎたんだよ?」
「私だって、四捨五入したらもう60歳よ」
「今、ビアガーデンやってるんだねー。俺、喉乾いた。昼ビール飲みてぇ。
まずは行こう、ビアガーデン。ほら、立って」
あちこちに中年男性らしい腹の肉をはみ出させていても、
彼は彼のままだった。
肩から胸のラインは、おそらくスポーツジムで鍛えているのだろう、
がっしりと厚く、肩甲骨から下のお腹のラインがポッコリしていた。
ジムでトレーニングをしたあと、ビールをひっかける人の典型。
私と会っていた頃、確かに男の子らしい、きれいな肩をしていたけれど、
もうすっかり大人の、中年の男の身体になっていた。
無邪気で、ちょっとだけ強引で、
でも、いつも私のようすを無意識に伺う感じ。
「久しぶりだなあ」身体の中でそう感じた。
●
あれから15年。
札幌の街は微調整を加えながら変化し、それでも札幌のままだった。
私は、と言えば、微調整どころか、何もかもが総とっかえしたかのようで、
すっかりおばあちゃんになってしまった。
白髪染めが追いつかないので
「白髪を生かした」ヘアスタイルにしてもらった。
肌に触れると「かさっ」と音がするように、潤いが失せた。
ふっくらとした頬は、その分量のままでだらしなく下がってしまった。
彼の前に現れるのには勇気がいったが、変化しないほうが不気味だ、
そう思い直して、会うことに決めたのだった。
彼は楽しげに悠々と歩き、
ビアガーデンのブースのメニューを丹念に見て回った。
サントリーがあって、アサヒがあって、キリンがあって、サッポロがある。
キリンのブースでは千歳工場限定醸造のビールを飲み、灯台つぶを食べた。
サッポロのブースでは富良野産ホップを100%使ったビールを飲み、
増毛産の甘エビの唐揚げを食べた。立ち飲みで。観光客みたいだった。
「もう子どもも膝の上で済む歳じゃいからね、
こっちにはそんなに戻らないんだ」
子ども? 割腹のいいお腹にも驚いたけど、子ども?
「いくつ?」
「上の子が小学4年生で、下が1年生。上が女で、下が男」
「奥さんは?」
「4つ下」
彼は灯台つぶを貝殻からほじくり出しながら、
昨日食べたものを報告するみたいに言った。
「あなたが離婚したのは、誰か忘れたけど、聞いた。今は?」
「ひとりよ」
週末のビアガーデン。
空は札幌特有の濃いシアンの色で、耳には舌足らずな女の子の声と、
どこかアジアの国の言葉が届いていた。
「ふうん。寂しくない?」
「ないわ」
中年男になってしまっても、
子どもみたいに無邪気でぶっきらぼうな話し方は変わらない。
左手の薬指に指輪が光る。あのときと、逆だ。
●
彼が西11丁目の「札幌ドイツ村」に行きたいと言うので、
のんびり歩いて行くことにした。
彼が乗る予定の飛行機は夜、日が落ちてからの便で、時間は十分にあった。
歩きながら、今は個人で仕事をしていること、
西葛西にマンションを買ったこと、妻は名古屋の出身だということを語った。
ぶっきらぼうな子どもみたいに。
「西葛西、い~いわぁ」
「西? ……臨海水族園があるところ?」
「ちょっと外れてるけどね。バスで行くんだ。
チビたち連れて、俺がマグロになるんじゃないかと思う程行った」
「ご両親は、こっち?」
「旭川」
「もともとそうだっけ?」
「道内転勤族だったからね。で、もともと旭川。リタイヤして、旭川戻った」
「じゃあ、旭川空港?」
「んにゃ」彼は猫のように「のび」をして、続けた。
「千歳と半々かなあ。やっぱり旭川行き、便少ないし。
ときどきダチに会いたいし。
それにヨメの実家に行くほうが陸路で手段選べるし、あっちが多いかな」
「ふうん」
10丁目の「世界のビール広場」の混沌を抜け、11丁目についた。
ドイツ村だ。
ここは本当にかわりない。
空色のフラッグ。白いとんがり帽子のテント。
素朴な木製のツリー「マイバウム」。
白いとんがり帽子が並ぶようすは、
いつも私に「すてきなさんにんぐみ」という絵本を思い出させる。
「落ち着こうぜ」
彼は言い、私たちはパラソルがある丸テーブルに座った。
テーブルに貼られたメニューを眺め、
まずビールはメニューの左から順番に飲むことにし、
おつまみは、私が適当に指差しで選んだ。
「じゃ、買ってくるわ。あなた、座ってな」
彼は軽やかに、楽しげに、ブースに向かった。
●
あれから、と、ふと思う。
彼との恋が突然終わり、私は世界を眺めるように自分を眺め、
さまざまなことを整理していった。
離婚した。会社を辞めた。いや、会社員を辞めた。
知事公館を西に見下ろす場所に住みたいと思い、そうした。
仕事は、個人でやっている。
「こんなことが仕事になるのか」と思うようなことが、
いつの間にか、私を食わせていた。
私ひとりくらいなら、
ほんの少しだけ贅沢な旅をしても平気なくらいには稼げるようになっていた。
いつの間にか。
いつの間にか閉経していた。
彼と会っていた頃から「身体の声」に耳を澄ませていた。
それでも身体は心を巻き込んで暴れた。
私は根気よく、身体の声に耳をすまし、身体の願望を叶え続けた。
そして、今、目の前には、
ミュンヘンで一番人気だというビールのグラスが置かれていた。
彼が慎重に、両手に紙皿を持ち、向かってくる。
ソーセージの盛り合わせや、枝豆や、炭火で焼かれた鶏。
ビアガーデンはピクニックみたいだ。
「うぇ~い!」
彼が威勢よく声をあげ、グラスを合わせた。
懐かしいような、丸ごとが「今」そのもののような、
シンプルに言えば「楽しい気持ち」に私は包まれていた。
●
「あ~、やっぱり、札幌、いいわ~。しばらく帰って来る気はないけど」
彼は椅子に身を投げ出すようにし、空を仰ぎながら言った。
私は札幌に「帰って来た」組だ。
空と木々と建物の見え方、鼻をくすぐる匂い、雪景色の乱反射する光、
私にとって、ここでなくてはならないものが多すぎた。
「ねえ、あなた、想像してたより、体型は変わらないんだね」
空から目だけを反らせて、だらしなく伸びきった格好で彼は言った。
体型は変わらないのではなく、変わらないようにしているのだ。
確かに結果は「変わらない」。
けれど例えば、私は自宅にいるときは夕食を取らない。
そして外食はほとんどしないから、実質、食事は朝と昼のみだ。
彼と別れて、「人生総とっかえ」が始まった40代半ばから、
空気を食べても太るような状況に陥った。
かかりつけの鍼灸師によれば「内臓が動いていない」のだそうで、
それが体内のあらゆる悪循環を引き起こし、
どんどん太っていくのだと言われた。
「少しの期間、夕食を抜いてみては」と言われ、そうしてみると、
ずい分、身体が楽になり、それ以来、ゆるゆると続けている。
体型はちょうどいいところで、落ち着いた。
他にもいろいろな「努力」は続けている。努力なくしては成り立たないのだ。
「体型は? ほかは? おばあちゃんになった?」
「想定よりは変わらないけど、でも、否めないね。まあ、おばあちゃんだわ」
彼の物言いは変わらない。
容赦なく、無邪気に、思ったことをそのまま言う。
思ったことを口にし、言った通りのことをする。
発言に矛盾があったとしても、
何かしら魂のようなものに、一切の矛盾がなかった。
だから私は彼に飛び込んだ。私にとって、これほど安心な人は、いない。
「俺は? もうおじさん?」
「おじさん」
「自分、おばあちゃんだから?」
「……胸板というか、腹板というか……。
分厚くなった感じがする。正しい40代」
「おおー」
彼は楽しそうにビールを飲み、焼いたソーセージにかぶりついた。
元気よく食べるさまも、変わらない。
「厚み、ね」
彼は一定のリズムで、テーブルの上の食べ物とビールを摂取した。
枝豆を口にいれ、ビールを飲み、空を仰いで、ビールをまた飲み、
ソーセージに食らいついた。
「俺と会わなくなって、寂しかった? 泣いた?」
ギロチンを下ろされたように終わった恋だった。
それでも別れたとき、どこかに安堵感があった。
夫に嘘をつかなくてもいい。彼の将来を考えなくていい。そういう安堵感。
その後「総とっかえ」を経て、奇妙な感覚にとらわれ、悩んだ。
彼が過去にならなかったからだ。
ほそぼそとではあったけれど、私にもいくつかのロマンスがあった。
誰かと美味しいお酒とごはんを楽しんだり、
景色を眺めたり、身体を温め合ったり、お風呂に入ったり。
それでも、彼の気配のようなものが、まとわりついているような気がした。
私は常に混乱していた。
彼を待っているのか。彼に執着しているのか。
「俺は、これでよかった、と思ってるよ」と、彼は言った。
ビールを飲み、空を仰ぎ見て。
「やっぱり子どもを授かれたのは大きかった。ヨメもめんこいし」
彼はテーブルの上の炭火焼チキンをいじる。
肉と大きな骨を分けて、食べやすくする。
「俺、ひどいこと言ってる?」
彼はチキンをほおばりながら言った。
私に「いちばんおいしいところ」を差し出して。
「ひどいかどうかは、私が決めることだよ。
私が決めて、私だけが味わえる感情だよ」
彼はようやく私の目を見た。15年ぶりに。きちんと。
「変わらねえな」
朗らかに驚きながら、彼は言い、ビールを飲んで空を仰いだ。
そしてゲラゲラ笑い始めた。
●
彼との「過去世」を見たことがある。私にそういう能力は、ない。
それでも、そのビジョンを眺めながら、混乱しつつも、
「ああ、これは私たちが生まれる前に起きたことだ」と、確信した。
特急列車に乗りながら、ぼんやり車窓を眺めていた。
眠気も強くなってきて、目を閉じようか、でも景色を眺めていたくて、
どっちつかずで放心しながら車窓を眺めていた。
すると、するすると目の前にスクリーンが2枚降りてきた。
目を開けながら、夢を見ているのだと思った。
右目と左目は、別のスクリーンを観ていた。
それぞれのスクリーンは、違う物語を投影していた。
左は武士の、右はそれより新しい、おそらく戦前の、日本のどこかの物語。
恋をするふたり。身分違いに悩むふたり。
武士と、若い男は、華やかな衣装を身につけた女の純粋さを愛していた。
女は男を愛していたが、男の出世に、自分が邪魔になると考えた。
次のシーンでは女が男に罵声を浴びせていた。
ふたりは別れたが、女は男を傷つけたと号泣していた。
それぞれが、それぞれの人生を歩んでいった。穏やかに。まっとうに。
そして合計4人が死ぬ間際に同じ思いにとらわれていた。
「あの、私が激しく愛した、あの人は、幸せになれただろうか」
●
「俺さ、花魁だったらしいんだ」
2杯目のビールを買ってきてくれた彼が切り出した。
「別れて少ししてさ、俺の母ちゃんが勝手に、霊能者?
なんかそういうのに俺とか父親のこととか相談したんだって。
したっけさ、親父も俺も花魁で、
母ちゃん、下働きのおっさんだったんだって」
彼は傑作だ、とでも言うように、足をバタつかせて笑った。
「でさ、それとは別に、
そういうのが見える飲み屋のマスターに勝手に見られてさ」
「ほう」
「まあ、そのマスターにはあなたとのこと、ちょっと話したんだよ。
そしたらさ、吉原の花魁だったときと、
芸者だったときにあなたと出会ってて、
そんであきらめきれなくて、生まれ変わって、また会ったんだってさ」
彼は枝豆を口に入れながら、気だるそうに言った。
「どう思う?」
「過去世で?」
「そう」
「私たちが、恋人だった」
「そう」
「私、それ見た」
彼は一瞬、ぽかーんとこちらを見て、次の瞬間、ゲラゲラ笑い出した。
「見た? どうやって? え、そういう人だった?」
私はスクリーンが2枚目の前に降りてきて、
それぞれに違う物語を上映する様子を話した。
「ふうん。あなたはそのアホ話を、ある意味リアルに見たんだな。
で? どう思った? 俺たち、運命の恋人なんだと思った?」
「せっかく2度も生まれ変わって出会ってるのに、
何をもちゃもちゃやっていたのかと頭にきたよ。
生まれ変わるときの、神さまへの誓い方とかさ、いろいろあるじゃん」
彼がビールのグラスを持ち上げたので、私たちは反射的に乾杯をした。
「まあでも」
と、私はビールを飲み、彼のように空を仰ぎながら言った。
札幌の空はいつも、くっきりと青く、私を包み込む。宇宙のスケールで。
「腑におとしやすかった。
そうか、そういうことがあって、出会っちゃったのか、
じゃあ、もう、いろいろなことがしようがなかったんだなって」
「ふうん」彼は酔いの回った、とろんとした目つきで私を眺めていた。
「俺たち、また来世で会うと思う?」
「あなたは?」
「わかんね」彼は目を閉じた。
今度こそ、
ふたりでずっと寄り添って生きて行きたかったのかもしれないけど、
元気で、自分の力で、今の人生で幸せにやっているあなたを見ていたら、
何かもう、気が済んじゃった感じもする。
私は口に出さず、次のビールを買いに席を立った。
●
席に戻ると、彼は腕組みをして、目を閉じていた。
「酔っちゃった?」
「……まあ、それなりに」
「ちょっと寝ると、楽になるわよ」
彼は、夢に片足を突っ込んだような目つきで私を眺め、やがて目を閉じた。
うなだれた首。がくん、と頭が下がり、頭頂部がきらっと光るのが見えた。
つやつやとした地肌。
そうか、おでこからハゲていくんだとばかり思っていた。
河童ザビエルタイプだったのか、と、私は納得し、満足して空を仰いだ。
深い呼吸をすると、カラリと乾いた夏の、札幌の空気が私の肺を満たした。
●
ジョッキ半分程を空けると、彼が目を開けた。
「おはよう」
「俺、寝たわ」
「すっきりした?」
彼はジョッキを持ち、乾杯のポーズをとった。
本当にこの子は、今日、千歳から羽田に飛ぶのかしら。
それでも昼に飲むお酒は、抜けるのが早いような気もする。
ビールしか飲んでいないから、大丈夫なのかしら。
寝起きの猫のような面持ちで、腕を伸ばして伸びをして、
彼は空を仰ぎ、眺めていた。
ぽっかりとした時間。
ギロチンを振り下ろされて、前後不覚になってしまった時を経て、
ようやく落ち着きを取り戻したような気がした。
かすかに冷気を帯びた札幌の夏の風が、そっと、私を優しく撫でた。
「イパネマ」
彼は空を凝視して、つぶやいた。耳を澄ませているのだ。
「イパネマ? 『イパネマの娘』?」
「……これ、生歌だよな」
微かに、男性が歌う『イパネマの娘』が聴こえる。
聴こえる方角を見ると、3つほどテーブルを越えた先に、
おじいさんがふたり座っていた。
どこから見ても、ボサノヴァと縁がなさそうな老人たちで、
歌っているのは、白髪を短く切りそろえた、
胸元にラインが入った白地の安そうなポロシャツを着たおじいさんだった。
マンションの管理組合の会合で、隅っこに座り、印象が薄い感じの。
「上手ね」
「ちっともお経じゃねえな。マジでボサノヴァだわ」
彼は空を見上げたまま、ぽかーんと言った。
私は懐かしくて、げらげら笑った。
会っていた頃、彼とふたりでカラオケに行った。
ちょっとボサノヴァにトライしたくなって、歌ってみた。
でもポルトガル語の字幕を追いかけるのだけで精一杯になって、
歌う曲、全部がお経みたいになってしまった。
悔しくて、
その後「ボサノヴァをポルトガル語で歌う」クラスに通ったくらいだ。
「もうお経じゃないわよ!」
「じゃ歌ってみ?」
私はおじいさんに合わせて歌ってみた。
おじいさんの歌は『デサフィナード』になっていた。
彼は空を見たまま、ぷっと笑って、「がんばったな」と言った。
おじいさんの歌声は、はにかみがちな男の子のようで、耳に心地よかった。
夏の昼下がりに、思い出に浸るのに十分なBGMだった。
「『フェリシダージ』だ。俺、これ好き」
「よく知ってるね。カラオケに行った時は、全部『お経』って言ってたのに」
「ヨメが聴くんだよ。小野リサのコンサートとか、結構行く」
彼の中で「お経」がボサノヴァになるほどの時が経過したのだ。
『フェリシダージ』を、おじいさんに合わせて口ずさむ。
昼下がりの、少し黄色みを帯びた日差し。
すべてが懐かしく、過去。過去のはずなのに、今のように疼く心。
「切ない歌ね」
「メロディ?」
「歌詞もよ。『悲しみには終わりがなく、幸せには終わりがある』って」
彼はげらげら笑って「救い、ねーな!」と言った。
●
私たちは、ビアガーデンを切り上げ、札幌駅へ向かうことにした。
ボサノヴァのおじいさんのテーブルのそばを通るとき、彼は、
「ねえ、じいちゃん! ボサノヴァ、なまらうまいね!」と声をかけた。
おじいさんはビックリして彼を見ていたが、私が、
「サウダージを感じました」と言うと、ニコっと笑った。
「サウダージって、何?」歩きながら、彼が訊いてきた。
「懐かしさ、とか、切なさ、とか訳されるんだけど、もっと感覚的なものね」
「ふうん。……フェリシダージな感じ?」
「かな?」
「あのじいさんさ、サウダーじいって感じ?」
「じい? サウダージなおじいさんで、サウダー爺?」
「よくね? サウダー爺」
私たちはいつの間にか、手をつないで、げらげら笑いながら歩いていた。
酔いがそうさせるのか、懐かしかった。
ゲラゲラ笑いながら、ハッとした。あの頃も、こんなことがあった。
「悲しみには終わりがなく、幸せには終わりがある」
私たちは、終えてしまったの? 終えることができたの?
生まれ変わって、出会い続けて。
信号待ちで、頬に風を受けながらぼんやりしていたら、視線を感じた。
「あなた、やっぱりきれいな人なんだな」出し抜けに、彼が言った。
ありがとう、と告げると「変わらねえな」と、笑った。
「おばあちゃんになっても、変わらねえ」
「もう、よぼよぼよ。もうちょっとで還暦なのよ?」
彼の視線をチクチク感じた。あの頃にも、あった。
気づくと、見つめられていた。
誰にも気づかれないように、鼻の中で、涙を流す感じ。
「美しいって感じることは、赦しに似てるって、あなた言ってたよね。
俺、それチビたちにも教えてる」
そんなこと言ってたのか、私。すっかり忘れてた。
それでも、感覚は覚えている。
美術品を眺めても、音楽を聴いても、空を見上げても、
私の五感を刺激するすべての「美しさ」を感じるとき、
私は何かに赦されているような気がしてならない。
「ごめんなさい」の次の、解放のようなもの。
彼は、鼻の中に涙をいっぱいためながら、きっぱりと言った。
「俺、あなたがきれいだなって、やっぱり思うんだよ」
「ありがとう」と私は彼に告げた。
身体にこもったサウダージを、ていねいに片付けるように。
●
少し早めに空港に行き、温泉でアルコールを抜くのだと彼は言った。
少しうらやましい気もしたが、
私は私のための部屋に帰ってお昼寝がしたかった。
「今日は会ってくれて、ありがとう」
札幌駅の南口広場に着くと、彼は言った。ここでお別れ、ということだ。
「会えてよかった」私は心から、そう告げた。
きっと私たちは、今の人生で、二度と会わない。
神さまからいただいた、プレゼントみたいな午後だった。
ようやく終えられたような。けりがついたような。
決着、というギフト。
手を振り合って、お互いが行くべき方向に向かった。
私たちの意識は、それでもまだ、優しい力で、そっと抱き合っていた。
それを何という言葉で表現するのか、私は知らない。
私の身体の感覚だけが、全てだった。
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