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シャツの柔軟剤の、甘い良い香りが鼻をくすぐる。これは現実だ。全身から触覚という触覚が消えている。でも、聴覚と視覚と嗅覚が、精神をこの世に繋ぎ止めている。
だからこそ、恐ろしい。現実味のないことが、現実以上にリアリティーを持ち心を乱す。受け入れがたい現実に恐怖する。
発狂して部屋中を駆け回る。カプセルにぶつかった。貼ってある紙を見る。「ボイスサンプル1538梅反かつき」とあった。
──そのとき、スマホからSNSの、音声通話の着信音が鳴る。
とりたくない。ポケットからスマホを取り出して、画面に表示された誰かの名前を見るのが怖い。早くあきらめて欲しい。なのに着信音は止まない。
耳を塞ぐ。着信音は大きくなっていく。消えない音の恐怖にうずくまり頭を抱える。耳につく嫌な音は、頭の中で反響する。
ポトリと私のポケットからスマホが落ちた。目の前に転がり出たそれの画面には『梅反かつきからの着信』と書かれていた。
カプセルに入った血の気のないかつきの姿を思い出す。冷凍されて霜がついたように白く、限りなく本人に近い形をしていた。もし、あれが人形でなく本人ならば、この通話の先で話すであろう人は誰なのだろうか。急に恐怖がさめて、よく分からない好奇心がわいてきた。
震える手を伸ばし、甲高い着信音が鳴るスマホをつかんだ。通話ボタンを押した。
「あ、もしもし」
爽やかな青年の声が、まるで草原を吹き抜ける風のように、私を包み込み癒してくれる。全身の感覚という感覚が戻ってくる。
「……もしもし」
「おまえどこにいるんだよ」
「い、いや、ちょっと迷っちゃってね」
「今、何階だ?」
「多分、二階だよ」
そう言うと、かつきは黙りこんだ。スマホのスピーカーからは何の音も聞こえない。
「そっか、ちょうど良い。僕は二階に用事があるから迎えにいくよ」
通話が切れた。一年ぶりに聞いた彼の声。とっても元気そうだった。何やら先生や学生同士の人間関係が大変だったそうだが、学校祭を楽しんでいるようだ。
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