分身

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「平岡が言っていた、横浜の外国人を襲おうとした男――渋沢とはお前か?」  例ならぬお言葉に平伏し、低く返事のみすると、 「そうか」  ぽとりと柿が落ちるように、それだけいうと踵を戻し去ってゆかれた。その一言で、攘夷云々でも幕府でもなく、あのお方に自分は召し抱えて頂いたのだと、そう実感できる一言だった。  尊攘派の長州藩失脚に伴い、画策していた外国人焼き討ち計画を断念せざるをえなかった私は、一橋家用人平岡様の元へ身を寄せた。中止となった計画が幕府に露見したことで追われる身となっていた私を、平岡様は一橋家の家臣にすることで幕府から守って下さった。激烈な尊王攘夷の志士を自負し、討幕を唱える私にとっては節を曲げることに他ならなかったが、世に用いられぬまま生を終えることは、何よりも耐え難い。  あのとき頂いた「そうか」には、そんな私の心内を見透かしたような響きがあった。  いつ来ても静岡の空気は、雨上がりのような清々しさがある。東京での雑事に追われ軋んだ私の心を、そのあたたかな風で撫でられれば、隅に溜まった埃が全て吹き飛ばされる気がした。 「渋沢です。ご機嫌伺いに参りました」  迎え出た家扶の男が、私の顔を見て目で微笑む。 「お待ちしておりました」     
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