分身

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 いつものやり取りを経て、奥へと通されると、かつて大広間で最上段から全国の諸藩へ号令を下していたお方とは思えぬ、粗末な六畳ほどの部屋に通される。控えていると、公が参られて薄い座布団の上にお座りになった。  あれから十年余り、ご隠居なされた慶喜公は丸みを帯びた松ぼっくりのようなお方になられた。軽やかな身を風に任せて転がり、気に入ったところで短い背をそっくりがえらせていくつもの種を飛ばす、あの松笠だ。  小さな静岡の街に押し込められながらも、馬に乗って鷹狩や鉄砲を撃ちに連日のように出かけ、思い立ったように放鷹に打ち込んだりと、興味の赴くままお過ごしになられている。廃藩置県後の地租改正を始め、政府により次々と発布される新制度に、この静岡も例に漏れず混乱の中にある。貴人に情なしと市井の人々に噂されているが、おそらく公なりに発露させねばならぬものがあるのだろう。 「投網のコツは掴んだぞ。清水の漁師にも一人前だと褒められた」  私の挨拶などそこそこに、公は得意げにおっしゃられた。京都時代は二心様などと陰口を叩かれたこともあったが、満足げなお顔と好奇心で輝く瞳は美しく、これこそこのお方の本当のご本性に違いなかった。 「投網の修業は一生涯と申しますが、本職からお墨付きをもらうとはさすがでございますね」 「東京の新聞記者の耳に入れば、投げ打つものは得意なのだろうと、風刺されそうだな」     
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