母の嘘

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 こんなこともあった。  幼い僕は(母は僕が十歳の時に離婚して実家へ戻ったので、母との記憶はほとんどが幼いときのものだ)その日、母の運転する車に乗ってどこかへ出かけていた。  夏だったのか、カーステレオからはラジオの怪談話が流れていて、怖い話が好きだった僕は夢中になって聞いていた。そのとき、母が、 「それよりもこっちのほうが怖いよ」  と言ってラジオを切り、CDを掛けた。  流れてきた曲は(その当時は知らなかったが)長渕剛の純恋歌だった。  幼い僕は、怪談話を途中で切られてモヤッとしつつも、こっちのほうが怖いんだ、どこが怖いんだろう、と真剣に長渕の歌声に耳を傾けていた。が、当然怖い部分なんかどこにもない。でも母が言うなら、僕にはまだわからない大人の何か怖いことを歌った歌なのかも知れない。そのときの僕はそう思っていた。  要するに母は、自分が聞きたい曲を掛けるために、僕に嘘をついたのだ。  その事実に気付いたのは、恥ずかしい話、ごくごく最近のことだ。僕はもう三十三歳になる。この歳になるまで、長渕剛の純恋歌を聞くと「これ、怖い歌なんだよな」とぼんやり思っていた。それは心からそう思っていたというか、ほとんど無意識でそう感じるという、擦り込みのような感覚だった。  それにしたって、母が自分のやりたいことのために僕にしょうもない嘘をついた、という事実は、気付いたときは、かなりのショックだった。
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