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「策士が策に溺れるとはな。片腹痛いわ」
太陽はいまだ中天に高く、じりじりとアスファルトを焼いている。
口内の唾液を飲み下してから恐る恐るそちらに視線を向けると、そこには杖を突いた和装の老人が短い影を引いて立っていた。
一瞬で、腹の底が冷えた。
「のぉ、そうは思わんか?」とこちらを愉快そうに見上げる鋭光。幾多の修羅場をくぐり抜けてきた男が纏う空気に気圧される。
これまでその姿を見かけたことはあっても、直接に言葉を掛けられるのはこの日が初めてだった。
袈裟丸 毅(けさまる たけし)会長。
戦後の高度経済成長期の荒波の最前衛を疾駆して、一大事業を築き上げた日本経済史に名を刻む企業経営のカリスマ。
「君は、名を何と言う」
「上杉 遼太郎、と申します」
上背はオレの方があるというのに、こちらを見上げる老人に射すくめられるとはどういうことだろう。沈黙の重さに耐えかねて言葉を漏らそうとした時、会長の口髭の奥で乾いた唇がふっと緩んだ。
「ふむ。悪くない」
「……?」
「最近の若い者はな、すぐに肩書きを述べたがる」
「えっと、つまり」
「どこそこの社長だとか、どこぞの会頭だとか。己の前に肩書きを欲しがるのだ」
「はぁ」
「君は違うらしいな。やはり男たる者、己の名のみにて大地に屹立してこそよ」
海千山千の役員達を相手にいまだに一歩も引けを取らないという袈裟丸会長。
そんな人物を前にして、オレの財務部長なんていう肩書きを掲げても無為な気がして名乗らなかっただけなのだが。とりあえず、黙っていることにしよう。
「今度、うちへ遊びに来なさい」
「はぁ。あの、『うち』と申しますと…… ひょっとして、会長のお宅にと言うことでしょうか」
「君の部署に神崎という者がいるだろう。その者に案内させなさい」
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