作家の卵と夏の檸檬

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 えたいの知れない不吉な塊が今、ぼくの心を始終圧えつけているからだ。  まさに今、ぼくの体感的には梶井基次郎先生と同じような感覚だった。  今自分のことを小説にするならば、まさに梶井基次郎先生と同じ走り出し、書き出しになってしまうことだろう。  だがぼくの抱えているそれは、梶井基次郎先生のそれとは似て非なるものだった。 なぜならぼくはその不吉な塊の正体を知っている。  それは、夏の蒸し暑さからくる胸焼けと、そこから発生する猛烈な倦怠感であった。  でもなぜこんなに夏の暑さで胸焼けを起こしているのか。  それは、この部屋にエアコンの設備がないからである。 「なぜこの部屋には、エアコンというものがないのか」  ぼくは大粒の汗を滝のように流しつつ、後悔の念を浮かべ畳の上で寝そべりながら意識的にそう呟く。  理由は単純明快であった。  ぼくは念願の夢であった小説家を二十代のうちに叶えようと、一念発起して大学を中退して小説を書き始めた、まだまだ未熟な小説家の卵であり、そしてまだデビューの兆しも見えずかけもちのアルバイトで生計を立てている、夢見る貧困青年なのだ。  そのため備え付けのエアコンや冷蔵庫、テレビのある部屋になんか家賃の都合上住めるはずもなく、出費を抑えるためしぶしぶエアコンなし風呂トイレなし1Kの部屋に住んでいる。  しかし熱い。  『暑い』ではなく、もう『暑い』では言い表せないほどに『熱い』。  この部屋で夏を迎えたのは初めてだが、まさかここまで部屋が意味をなさなくなるとは思ってもみていなかった。  テレビのニュースでは毎年毎年『日本最高気温!』と銘打って気温を発表していたけれども、エアコンもテレビもない今、この暑さが歴代最高気温なのもなんだかわかる気がしてきていた。
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