作家の卵と夏の檸檬

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「こんにちは、うずらさん。今日もお疲れ様ですね」 「あ、あの、ありがとうございます。……菊池さんも、いつもお疲れ様です」  人見知りのぼくでも何とか挨拶を交わすことのできる彼女は菊池一葉さんという名前の方で、この古書店の店長さんである。  ぼくは胸の奥底に眠る小さな勇気をギュウッと振り絞り、店長さんに恐る恐る会話を振る。 「……い、いやぁ、今日は暑いですね」 「そうですね。ニュース番組でも、今日は歴代最高気温が出るかもしれないって言っていましたから」  そうか、どうりで暑かったわけだ。 「それで、今日はどういった本をお探しなんですか?」  店長さんはいつものように屈託のない笑顔でぼくの欲している本を尋ねてくれる。  店長さんは僕が小説やそれに関係した話になると、まだ饒舌に話すことができることを知っているのだ。  ぼくの中で奇妙なたくらみが起こった。そうだ、本のニュアンスだけ伝えてみよう。 「そうですねぇ、いつも得体の知れない何かに圧迫されていた主人公が、果物から感じた自然の力強さに救われる、そんな元気をいただけるようなお話です」 「え? ……あぁ、なるほど。梶井基次郎さんの代表作『檸檬』ですね」  即答だった。  奇妙なたくらみのあっけない終わりは、ぼくをぎょっとさせた。 「梶井基次郎さんの『檸檬』良いですよね。わたしも好きです。丁寧で軽やかな文体に、貧困で些細な日常の中から不安定さと力強さを切り取ることのできる繊細な感性。レモンの清清しさ、丸善のムワッとした古めかしさが上手に描写されていて、あぁ、これが文学かぁって思い知らされるんだ」 「ぼくも、丸善の見すぼらしくも美しいお店の描写良いと思います。それを連想して、ここにやってきてみました」
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