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一.
笠木矢㮈《かさぎ やな》が通う彩楸学園高校の近くに、音楽好きの店主が営む喫茶『音響』がある。と言っても喫茶店になったのはマスターの趣味が高じた結果で、彼の本職は弦楽器などの調律師だった。矢㮈の祖父母とは旧知の仲で、昔から祖父共々バイオリンの調律でお世話になっている。
矢㮈はその日の放課後、定期メンテナンスのために預けていたバイオリンを受け取りに、『音響』に向かった。
「こんにちは」
「ああ、矢㮈ちゃん。こんにちは」
カウンターの中で作業をしていたマスターがにこやかな笑みを向ける。もうすぐ初老に入ろうかという少しメタボ気味の男性だ。
おやつタイムを過ぎた夕方の店内には他に客の姿は見えなかった。
「バイオリンを取りに来ました」
「うん、準備してあるよ。急ぎかな?」
「ううん、急ぎではないです」
「じゃあ珈琲でもどうぞ。お得意様へのサービスです」
「わあ、ありがとうございます!」
マスターの淹れてくれる珈琲は美味しい。普段は砂糖とミルクが必須でむしろカフェオレを選ぶ矢㮈が、唯一ブラックで飲める貴重な珈琲である。店内を流れる心地よいジャズに耳を澄ませながら珈琲を待つことにした。
マスターは丁寧に珈琲を淹れて矢㮈の前に出すと、自分は奥の作業室に入って行った。矢㮈のバイオリンを取りに行ってくれたのだろう。
矢㮈は珈琲を飲みながらほっこりとした気持ちで店内を見回した。
店内には小さなステージが設けられていて、たまにここで演奏会が開かれたりする。矢㮈も何度かこのステージに立たせてもらった。
壁には音楽関係のポスターが貼ってあって、とある演奏家のサインが入った古いものや、最近のイベントのものなどが入り混じって並んでいた。
さらに壁のあちこちに取り付けられた小棚には、色形様々なものが並んでいる。この店にはマスターの世界中の音楽仲間が集い、各々が持って来た世界中の土産が集結するのだ。
その中で矢㮈が特に気に入っている棚は、オルゴールとフラワリウムが並んだ華やかな一角だった。幼い頃、あれやこれやと手にとってはネジを巻いて、オルゴールの澄んだ音色を楽しんだ。オルゴールによっては繊細な細工を施した鍵付きの小物入れと一体になったものもあり、見ているだけでも楽しい。
(ここに来る度にあの棚の前から動かなかったんだよなあ)
思い出すと懐かしい気持ちになる。熱い珈琲に息をふうと吹きかけてまた一口啜った。
「はい、お待たせ」
マスターが矢㮈のバイオリンケースを手に戻って来た。
受け取って中身を確認する。消耗していた弦が新しく張り替えられていた。
「マスター、少し弾いてみても良い?」
「良いよ」
矢㮈の頼みにマスターは快諾し、小さな舞台の方を親指で示した。
「折角だからどうだい?」
「ええー」
ちょっと困ったふうに返しながらも、他に客がいないことを幸いに矢㮈は舞台へと足を向けた。
自分の中でお約束となっているかのように舞台上で一礼し、現在の練習曲を奏で始める。頭の中の譜を追うというよりは、手が覚えていた。
交換したばかりの新しい弦が震えて音が弾き出される。
一年前にここで演奏した時とは違い、ずっと腕がスムーズに動いているのが分かる。
(ああ、楽しい)
家や学校の屋上での練習と違って、舞台に立って弾いているせいもあるだろうか。
矢㮈は夢中で弓を動かし、自分の奏でるバイオリンに耳を澄ませた。もっと出したい音がある。もっと響かせたい音がある。自分が理想とする音に少しでも近づきたい。
気付けば続けて三曲ほどぶっ通し、矢㮈はようやく腕を下ろした。
はあと息を吐いたところで、パチパチと拍手の音が聞こえた。
「?」
とてもマスター一人分のものとは思えず顔を上げると、
「力入ってたねえ」
「鬼のように弾いてたな」
いつの間に来たのやら、同じ学校の海中諷杝と高瀬也梛がカウンター席のスツールに腰掛けて舞台の方を見ていた。
「諷杝に高瀬!?」
全く気付かなかった。入り口の扉には鈴がついていて、開けば音がするはずなのに。
そういえば店内にかかっていたジャズの音楽も聞こえなくなっている。恐らくマスターが矢㮈の邪魔にならないように消してくれたのだろう。
「あはは。懐かしいなあ。昔、おじいさんと一緒に夢中になって弾いてた君を思い出すよ」
マスターが楽しそうに笑って、矢㮈に二杯目のカフェオレを淹れてくれた。
「おじいちゃんはあまりうるさく言う人じゃなかったから……とにかく真似て弾くしかなかったんです」
祖父亡き今は祖母がバイオリンの先生役だ。バイオリンを再開し、コンクールにも挑戦するようになってからは、祖母の伝手で他の教室にも通うようになった。
「またコンクールに出るつもりなんだって?」
「はい。色々挑戦してみようかなって」
矢㮈の答えにマスターはどこか安心したように微笑んだ。
「そうかそうか。おじいさんもきっと喜んでいるね」
「ちゃんとおじいちゃんに報告できるくらいの結果を出すのが目標です」
中学の頃はそれが叶わなかった。あまつさえ、バイオリンからも遠ざかってしまったのだ。
「おじいさんは君が楽しく弾き続けてくれたらそれだけで嬉しいだろうけどね。しかし私も楽しみだな」
矢㮈がバイオリンを弾かなくなり、この『音響』にも近付かなくなって、マスターにも大きな心配をかけていたのは知っている。旧友の孫のことをずっと気にかけてくれていた。だから、矢㮈が再びバイオリンに手を伸ばした時、この店の舞台で弾くことを快く承諾してくれたのだ。
そしてあの時ここで演奏できたから、今、諷杝と高瀬と共に音楽を奏でられている。
「ところでコンクールはいつなの?」
猫舌の諷杝が珈琲の湯気をふうふうと吹いて冷ましている。
「まだ少し先かな。その前に練習も兼ねて小さな大会や演奏会にも出たいなと思ってて」
祖母と教室の先生がいくつか候補を出してくれている。スケジュールを調整して決めるつもりだった。
「そっか。矢㮈ちゃんはステップアップするために頑張ってるんだね」
しみじみと言う諷杝は優し気な表情で目を細めた。見てるこちらがとても安心できるような、見守ってくれるような目だった。
(……頑張ろう)
自然に、そう思えた。
矢㮈が静かに心の中で意欲を燃やしている傍ら、
「僕も……」
諷杝がそっと何かを言いかけたが、すぐに「何でもない」と首を横に振った。
「諷杝?」
どうしたのかと視線で問い掛けてみるが、彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、どこか困ったように眉を下げていたのが気になった。
「なあ」
ずっと黙っていた高瀬が、珈琲カップを置いて何げなく声を発した。前を向いたままだったので、それがまさか矢㮈に向けられたものだとは思わなかった。
高瀬がこちらに顔を向けたところで、
「え、あたし?」
間抜けに返してしまった。高瀬の眉が少し寄る。
「……俺のピアノの先生だった人が今度日本に帰って来て演奏会開くらしいんだけど、お前、興味あるか?」
「え?」
いきなりの内容すぎて理解が追い付かない。
「先生の姿はお前らも去年見たことあると思うけど」
「ああ、あの也梛のピアノを御所望した先生か」
諷杝が思い出したように頷いた。矢㮈も記憶を遡り、昨年の夏の出来事を思い出す。そういえば、高瀬が家の都合でピアノ演奏会に出演したのだった。その時に彼と演奏していた女性だ。
矢㮈と諷杝は高瀬のピアノ聴きたさにわざわざ会場に潜り込んでいたので知っている。
確か彼の先生はその後海外に行ったと聞いていたが、どうやら一時帰国するらしい。
「興味があるかないか以前に何であたしにその演奏会の話を振ったの?」
高瀬がどういう意図でこの話を持って来たのかが分からない。
「俺も寝耳に水だったんだよ。先生がお前のこと覚えてたなんて」
「は? あんたの先生とあたしには何の面識もないはずだけど……?」
全く以て意味不明だった。彼と鏡写しのように矢㮈の眉間にも皺が寄るのが分かった。
「先生はあの夏の音楽祭も見に来てたんだよ。だからそれでお前のことを知ったんだろう」
「ああ、それで……」
先方が矢㮈のことを知っていたことは理解できた。だが問題はまだ解決していない。なぜそれで矢㮈に演奏会の話が来るのか。
「俺も詳しくはまだ聞いてない。だけど先生から直接、お前に演奏会のオファーをかけたいって連絡が来たんだ」
「……まさかピアノで?」
「アホか。バイオリンに決まってるだろ」
冗談のつもりで言ったのに一蹴された。
高瀬は溜め息を吐いてどこか投げやりに続けた。
「先生の手前さすがに断り切れなくて、とりあえずお前に話をしておくって言っちまったんだ」
なるほど。経緯は何となく分かった。
「高瀬はまたピアノを弾くの?」
「いや、俺は弾かない」
「え?」
「この話はお前へのオファーだ」
「わあ~」
諷杝がわくわくした顔をしているのが解せない。やっと口をつけられるくらいの温度になったのか、ちびちびと珈琲を啜っている。
「別に無理に引き受けなくても良い。ただ、お前に興味があったらの話だ。コンクールの練習やその他に影響するならやめておけ。いや、絶対にやめろ」
高瀬は自分から話を吹っ掛けてきたにも関わらず、釘を刺すのも忘れない。こういうところは全く彼らしい。
矢㮈は少し考えて、尋ねた。
「それ、少し考える時間もらってもいい?」
「ああ、もちろんだ。演奏会自体は七月の頭くらいだから五月中に返事もらえれば良い」
と言っても五月はあと一週間程しかないのだが。
「矢㮈ちゃんが出るならまた聴きに行かなきゃだね」
諷杝が珈琲を美味しそうに飲みながらほっこりと息を吐いた。
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