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序奏
一.
高校の入学式の朝だった。
矢㮈《やな》が祖父の仏壇のある和室に入ると、いつものように仏壇脇に置かれているケースが目についた。
それは生前祖父が使っていたバイオリンだった。
矢㮈は仏壇の前に正座し、線香をあげて挨拶をする。そして、祖父が亡くなって以来ずっと触らないでいたそのバイオリンケースにそっと手を伸ばした。
ケースを手元に置いて、蓋を開ける。中のバイオリンは手入れされているので、あの頃のままずっと綺麗だ。
矢㮈はごくっと唾を呑み込んで、ゆっくりとバイオリン本体に手を近づけた。
しかし、後数センチという所で手を止めた。
――。
頭の中で、弦が弾ける音がする。
「触っても大丈夫。昨日俺がちゃんと手入れしたばかりだから、そう簡単には切れないよ」
聞き慣れた声が後ろからして振り返ると、開けた襖に背を軽くもたせ掛けるように弟が立っていた。
矢㮈はすぐにふいとバイオリンに視線を戻し、ケースの蓋を閉めた。
「あれ、弾かないの?」
「やっぱり弾けないわ」
苦笑と共に言って、元通りの位置にケースを置き、矢㮈は立ち上がった。
「おじいちゃんにはちゃんと挨拶したよ」
言いながら、開いた襖を――弟の目の前を通り越す。
その背に、また声がかかった。
「オーケストラ部あるんだろ。絶対見学してこいよ」
「気が向いたらね」
矢㮈は弟に軽く返事をし、リビングへ向かった。
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