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こどもひゃくとおばんの家
「おはようございます」
黄色いランドセルカバーがまだ新しい茉莉花の元気な声が響いた。
目の前には箒と塵取りを持った初老の主婦が立っている。
「おはよう。きょうも元気でとってもよろしい」
藤崎恵子に褒められて、茉莉花の笑顔がさらに咲いた。
恵子が住む立派な屋敷の門前は通学路になっていて、彼女はそこを毎朝掃除していた。
茉莉花は優しくてふんわりといい匂いのする恵子が大好きだった。
幼い頃の記憶ではずっと前にそこにいたのは気難しい顔をした老人だった。いつも生垣の手入れをしていたが、門前を通るだけで怒鳴られそうな気がして茉莉花はびくびくしながら母親に連れられ幼稚園に通ったことを覚えている。
ある日それを思い出して、あの老人が誰だったのか夕食の時ママに訊いたことがあったが、
「それはおばちゃんのだんなさんのお父さんよ」
と、茉莉花にとってややこしい答えが返ってきた。
「へえ、藤崎さんちお舅さんいるんだ」
茉莉花よりも先に今度はパパがわからない言葉で返す。
「そうなの。それでお舅さんが認知症になって、お世話が大変なんだって。藤崎さんってきっちりした人でしょ。だからちゃんとお世話してるんだけど怒鳴られたり、物をぶつけられたりするらしいわ。
だんなさんは海外赴任でずっといないし。なんだか報われないよね。あーあ、うちもいずれ来る道かあ」
ママのため息を聞いて、おばちゃんが大変なのはわかったが、言ってる意味はよくわからない。
きっとおばちゃんはすごく頑張ってるってことなんだと、茉莉花はひとり納得して、ますます恵子のことが好きになった。
とにかく、今ここにいるのがおばちゃんでよかった。
「いってきまーす」
とびきりの笑顔で手を振ると、恵子も手を振っていつまでも見送ってくれた。
おばちゃんがいれば安心だ。
茉莉花は足取りも軽く学校へ向かった。
入学した頃、最初の三日間だけママに付き添ってもらった茉莉花も今は一人で登下校している。
ふつうは近所の友達や兄弟姉妹と連れ立って登校するのだが、一人っ子の茉莉花は近隣に同じような小学生もいない。
この小学校区では最近そういう児童が目立って増えてきたので、『こどもひゃくとおばんの家』が何軒か配置されることになった。住宅街のような人目のある場所でも安全とは言い切れなくなってきたためだ。
藤崎家も『こどもひゃくとおばんの家』として旗を掲げている家の一つだった。
赤地に白い犬のお巡りさんが描かれた旗の役割を茉莉花は十分知っている。入学式のあと集まった教室で担任の先生に教えてもらったからだ。
茉莉花にとって恵子は優しくて頼もしい白い犬のお巡りさんだった。
その日の放課後、茉莉花はお喋りが楽しくて、友達の家の方向へと一緒に帰ってしまった。遠回りになるのは少しだけだと軽く考えたのだ。
友達とバイバイした後、あてずっぽうに我が家の方向へと歩き出し、知らない細い路地を何度も曲がった。
その時はまだ不安を感じていなかったが、しばらくして何気なく振り向いた茉莉花は、少し離れてついてくる野球帽をかぶった男に気付いた。
たまたま同じ方向を歩いているだけだと自分に言い聞かせたが心臓がどきどきしてくる。
振り返る度に少しずつ距離が縮まっているような気がした。
目深にかぶった帽子の下から男がじっとりとこっちを見つめている。
茉莉花は早足で先を進んだ。するとうしろの足音がどんどん迫り、
「お嬢ちゃん。ひとりじゃ危ないから送ってあげるよ」
男が腰を折って目の前に顔を突き出してきた。
口を開いて笑っている黄色い歯が気持ち悪く、変なにおいもする。
茉莉花はとっさに男をかわし、力いっぱい走った。
ランドセルの中身が飛び跳ねてかたかたうるさい。
通行人は一人もおらず、いつもの通学路も見つからない。
次の角を曲がれば知っている道に出るかもしれない。誰かいるかもしれない。そう期待しながらにじむ涙を袖で拭いてひたすら走った。
あっ。
茉莉花は肩ベルトで揺れているものに気付いた。
防犯ブザーだった。思い出したと同時に角を曲がる。
前方に恵子の姿が見えた。
いつもの通学路に出たのだ。
「うわあああん。藤崎のおばちゃあん」
ブザーの紐を引こうとしていた茉莉花はその手を放し、門前で水を撒いている恵子に駆け寄った。涙があふれて止まらない。
「どうしたの茉莉花ちゃん」
「こわい、おじさんが、追いかけて、くるの」
泣きじゃくって後ろを指さした。
恵子は顔をしかめ、「いやだ。大変だわ」とバケツを置くと茉莉花を門の中に引っ張った。
「何なの、あなたっ」
恵子は門扉を閉めながら近付いてくる男を睨み付けた。だが声が震えている。
おばちゃんも怖いんだ。
そう思うと安心できなくて、玄関に向かってアプローチを走った。
「待って茉莉花ちゃん」
呼び止める恵子の声がしたが、勝手に引き戸を開けて中に飛び込むとそっと顔だけを出す。
下卑た笑顔を浮かべ男が門扉に手を掛けるのが見えた。
「警察を呼びますよ」
恵子の脅しにひるむことなく男は門内に侵入してくる。
慌てて玄関に飛び込んできた恵子が引き戸を閉めかけるも隙間から差し込まれた男の足で戸が止まった。
「きゃあああ」
恵子の悲鳴が響き渡る。
茉莉花は靴を飛ばして上がり框に飛び乗った。下駄箱の上には天然石の置物の横に電話が置かれていたが、それに気付かず廊下を奥へと逃げる。
「おどしじゃないわよ。本当に電話しますからね」
恵子の声とピッピッという音を聞きながら廊下の突き当りを左に曲がった。
目の前には暗くて長い廊下が伸びていた。
右側には大きな窓が並んでいる。開いていれば庭に面した縁側になるのだろうが今は雨戸がすべて閉まっている。あまりの暗さに一歩を踏み出せずにいた。
「何すんの。放しなさい」
恵子のけたたましい声で我に返ると茉莉花は暗闇に踏み込んだ。左手で壁を伝いながらそろそろと奥に進む。
玄関からはまだ争う声がしている。
茉莉花は再び突き当った廊下を曲がった。
そこに並んだ大きな窓も全部雨戸が閉まっていた。恐る恐る進むと左手が障子に触れた。
この中に隠れていよう。
そっと開けると真っ暗な部屋からひどいにおいが噴き出してきた。思わず鼻を押さえて入るのを躊躇ったが、玄関から一際大きな音が聞こえ、怖くなった茉莉花は中に飛び込んだ。
両手を前に突きだし暗闇を探りながら奥に進む。どこに足を持って行っても何かを踏んだ。テレビで観たゴミ屋敷が頭に浮かび、靴下が汚れそうで気持ちが悪い。
玄関のほうからはもう声も物音もしなくなっていたが、しばらくここで待っていようと考えていた矢先、間近で呻き声がして闇が動いた。いっきに何とも言えない臭気が立ち上り、茉莉花はしゃがみ込んでしまった。
パチンと音がして部屋の明かりが点く。
ゴミの散乱した和室の入口に恵子がいた。照明のスイッチに手を置いたまま、瞬きもしないでじっと立っている。
「おばちゃんっ」
ほっとして立ち上がった茉莉花の横で呻き声がした。
汚れたベッドの上にミイラのような裸の男が転がっていた。黄色く濁った目で見つめている。
「きゃあ」
腰が抜けた茉莉花はゴミの上に座り込み、涙目で恵子に助けを求めた。
だが、
「なんでここに入ったの」
低くて暗い恵子の声がした。
恵子のそんな声を今まで聞いたことがない茉莉花は戸惑った。
「なんでここに入ったかって聞いてるのっ。いったい何を調べているのっ」
ゴミを蹴散らしながら詰め寄ってきた恵子に腕をつかまれ、すごい力で引っ張り上げられる。
「痛いよ。わたしなんにもしてない。隠れてただけだよ」
涙を浮かべ訴えても力は緩まない。
「こわいようこわいよう」
ミイラ男が叫び始めた。
「うるさいっ」
恵子がへこんだ腹に拳を落とす。
「ぐぼっ」
赤黒いどろどろしたものを吐き出してミイラ男は静かになった。
それを見て茉莉花の声が出なくなってしまった。
「あんたのおかげでゴミがまた増えたのよ」
恵子はランドセルの肩ベルトをつかんで茉莉花を廊下へ引っ張りだすと、「見なさいっ」と頭を押さえつけた。
廊下には茉莉花をつけてきた男が倒れていた。頭が割れて血が溢れ出している。引き摺ってきた赤い筋が廊下に伸びていた。
「これはあんたのせいだからね。中に入れるからさっさと手伝うのよ」
恵子の命令に首を横に振る。
舌打ちした恵子が茉莉花の肩から無理にランドセルを引き剥がし部屋の隅に投げ捨てた。腕をつかんで死体の片脚を持たせようとする。
茉莉花は激しく首を振りながら両手を握って抵抗した。だが、何度も後頭部を叩かれて従わざるを得なかった。
もう一方の脚を持った恵子とともに死体を和室に引っ張り込んだ。ゴミを巻き込んで赤い筋が伸びていく。
ベッドの横まで引きずってくると恵子は脚を放り出した。茉莉花も慌てて放し、スカートで手を拭く。
「どうしてこう面倒ばかり増えるんだろうねえ、茉莉花ちゃん。おばちゃんずっと頑張ってるんだよ。いつになったら楽な暮らしができるんだろう。ほんと、男ってやつはどいつもこいつも面倒ばかりかけてくれるわ」
愚痴を吐いてベッドの傍らにある押し入れを開けた。
下段にこげ茶色に変色した本物のミイラが座っていた。顔は苦痛に歪み、両目はぽっかり穴が開いている。
とうとう茉莉花の両脚に暖かいものが伝い落ちた。
「いやだ、なに? おもらししたの? あんたまだわたしに面倒をかけさせる気? 意外と悪い子なのね。
ま、いいわ。そこはあとで拭くから先にこれを片付けるわよ」
恵子はミイラを引っ張り出して下段を空にすると、死体を中に入れるよう命じた。
茉莉花は再び激しく首を振って拒否したが、「早くしろっ」と怒鳴られ、死体の脚を両脇に抱えてバックで押し入れに入ろうとした。
だが小さな女の子にそんな力などあるはずもなく、結局恵子が死体の上半身を押して手助けした。
腰を屈めて中ほどまで入ったとき、加減せずに死体を押し込んでくる恵子の力に負け、茉莉花は尻もちをついた。どんどん押し込まれてくる死体に押されて立ち上がることができない。
身動きの取れなくなった茉莉花に目もくれず、死体を入れ終えた恵子は再びミイラを中に戻し始めた。
空ろな眼窩が目前に迫ってくる。悲鳴を上げたが、ううっという呻き声にしかならない。
ミイラを入れ終えた恵子が押し入れの前から離れた。茉莉花は何とかして外に出ようと体を動かしたがまったく身動きできなかった。
はあはあと荒い息を吐いて恵子が戻ってきた。ベッドの男の上半身を抱え、
「お前もここに入ってろっ」
そう言って押し込んでくる。
死体がますます茉莉花の体を押さえつけ、ミイラの顔が頬にくっつく。さらに赤黒い吐瀉物に塗れた男の顔がそこに加わった。汚れた口をにちゃにちゃ動かしながら濁った目で茉莉花をじっと見つめてくる。
恵子がもう一つ何かを突っ込んできた。
それが自分のランドセルだとわかったとき、襖がぴしゃりと閉められた。凄まじい悪臭が充満する。
出してええええっ
隙間から入ってくる一条の光に手を伸ばし、茉莉花は声にならない叫びを上げた。
だが、パチンと音がしてすべてが真っ暗闇に包まれた。
*
それでは次のニュースです。
一昨日○○市で下校途中行方がわからなくなっていた小学校一年生、山谷茉莉花ちゃんが近所に住む藤崎清さん宅で発見されました。
警察は近隣住民の目撃証言などをもとに藤崎さん宅を捜索、押し入れの中に閉じ込められていた茉莉花ちゃんを無事保護。監禁の疑いで清さんの妻、藤崎恵子容疑者を逮捕しました。
押し入れの中からは茉莉花ちゃんの他に衰弱した男性一人と二人の遺体が見つかり、衰弱している男性は清さんと見られ、病院に搬送されましたが意識不明の重体です。
二人の遺体はどちらも男性で一人はミイラ化しており、この家に住む清さんの実父、藤崎清一さんの姿がないことからこの遺体が清一さんのものではないかと思われ、もう一人の遺体の身元確認とともに調べを急いでいます。
警察は清さんの虐待を含め、藤崎容疑者が二人の死にどうかかわったのか慎重に捜査を進めているということです。
発見時、茉莉花ちゃんには目立った外傷がなく、命の危険はないとのことですが、精神の衰弱が激しく、心のケアを重点に現在病院で治療を行っています。
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