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第一章 花音の“アメージンググレース”
(序章)
幼い花音が揺り籠の中で最初に聴いた歌は、女学校の音楽教師だった祖母が歌ってくれたアメイジング・グレイス。その甘美で清廉な旋律は、花音を悲しみや苦しみから何時も救ってくれる。
神に祈りを捧げるその詩は、暖かな輝きとなって導いてくれる。だから花音は、哀しい時も辛い時もその歌にすべてを託して唄う。
ー1・ー
花音が新郎の十文字隆仁を初夜の床でぶちのめして逃げたのは、三年前の初夏の宵だった。
花音が二十三歳の夏のことだ。
事の起こりは、何時ものように姉の咲姫。本来は三才齢上のこの姉が、隆仁の許婚だった。下らない話しに聞こえるかもしれないが、十文字隆仁と咲姫の婚約は、お金持ちの家と政治家の家の駆け引きの産物だった。
隆仁が十三歳で、咲姫は九歳。
今時、こんな馬鹿な事をやっている世界がまだあること事態が、世界遺産モノだと思うのだが。・・・如何なものだろうか?!
もっともその頃はまだ、花音は咲姫の妹などでは無かったのだが。
花音が咲姫の妹になったのは、花音が九歳で咲姫が十二歳の時だった。
それは生活の糧に困窮した母が、叔父の持ってきた見合い話を受け入れたからに他ならない。こうして母は、地方の県会議員から華々しく国政に転じたばかりの、参議院議員・立木信之氏の妻に迎えられた。
よく言えば家の要、実態は秘書兼家政婦。
そして我儘な一人娘・咲姫の乳母で、当時九歳だった私は咲姫の愛犬・“キャバリエの蘭ちゃん”に次ぐ地位と立場を与えられて、立木信之の邸に引き取られたのである。
《ここで花音の事をもう少し、お話ししておこう》
花音の亡くなった父は、殆ど世間に名を知られてはいないが、クラッシック音楽の作曲家だったらしい。物心付いた時には父は既に亡く、母は父の両親に養って貰っていた。
地方の交響楽団でチェロ奏者をしていた祖父と、女学校の音楽教師だった祖母。貧しいが心優しい家族に囲まれて幸せだった母と私が、生活に困窮するようになったのは悲しい交通事故のせいだった。
祖父の運転する車に、居眠り運転の大型トラックが接触した。祖父と祖母の乗った車は、跳ね飛ばされて道路わきの民家のブロック塀に激突したのである。
車は大破し、二人は即死。
祖父の借金を返したら、預金はそれ程残らなかったらしい。借家だった家は、契約者の祖父の死を口実に間もなく追い出された。
わずかばかりの貯金で四年程は食い繋いだが、貯えに底が見えた頃。母の弟である叔父が、見合い話を持ち込んで来たのである。
母の実家は、江戸時代から続いた造り酒屋だった。落ちぶれた銘家というやつだ。
誇りは高いが、金は無い。
叔父の魂胆が、「経済的に行き詰った母が、妙な商売に転じるのを防ぎたい一心だった」と思うのは、私のひがみだろうか。
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