第六章  咲姫と “魔笛”

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 4・  隆房と妻の良子との出会いは。大学のカフェテリアでぶつかった拍子に、良子がぶちまけたコーヒーが縁だった。  普通のサラリーマン家庭に育った良子にとって、コーヒーがタップリかかって汚れた隆房のアルパカのセーターは、とてもお小遣いで弁償できるような金額の品物では無かった。  必死で半年間もアルバイトに励んで、やっとお金を用意した。  一生懸命に詫びる良子が、隆房には新鮮だった。  彼の父が集めて来る上流階級の娘達には無い、実直で誠実な眼差し。  可愛い良子にその場で恋をした隆房だが。まだ十九歳の新入生だった良子に手は出しかねた。  もう少し大人になるまで、待つしかない。  他の男に取られたく無い隆房は、同じサークルに入る為に留年までして退けた。努力の甲斐あって、二十二歳の隆房は二十歳の良子の恋人になれたのだ。  然し大学を卒業すると、隆房を待っていたのは怒濤の日々だった。たった一人の跡取り息子だった彼には、十文字家の事業を引き継ぐ為の厳しい闘いの日々が待っていたのだ。  しかも、それだけでは無かった。  社会人として世に出た瞬間から、十文字家の次期当主の妻の座を狙ってうごめく、女達の熾烈な妻の座争奪戦が始まったのだ。  連日の様に持ち込まれる、見合い写真の山。  然も隆房の父には、捨てた許婚に対する贖罪(しょくざい)の気持ちがあった。彼が生まれた時からの許婚だった女性を捨てて二年後。許婚だった六条院家の令嬢は、実家の破産と云う憂き目にあった。  声楽家として嘱望されていた未来を捨てて弟を育てる為に、女学校の音楽教師になった娘。噂で聞いた時には、胸がつぶれる思いがした。  「もし僕が彼女との婚約を破棄しなければ、十文字家の援助を受けて危機を脱した六条院家は、破産しなかった」  「あの時に彼女を捨てて選んだ女はね。彼女の半分の値打も無い、身持ちの悪いアバズレだったよ」  「どれほど後悔したかしれない。でも、時は戻せなかった」  隆房が大人になってから、度々そんな話をするようになった父。  「だから出来たら六条院家の血をひく女性を、お前の妻に迎えて貰いたいんだよ」、辛そうに呟く父。  それが、父の強い願いだった。
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