481人が本棚に入れています
本棚に追加
「すみません。後でその辺のお店で買ってきます」
詫びる私に冷たい視線をくれた後で、秘書に買いに行かせた。
「お前の事は最初から、娘と思った事なんか一度も無い。それにお前の母親が倒れた以上、立木の家にお前の居場所は無い。だから帰って来ないでくれ」
「さっきも言ったが、咲姫の結婚が近いんだ。迷惑を掛けるな」
そこへ彼の古参の秘書が来たのを機に、立木信之の話は終わった。
「アパートの部屋を借りておいたから、病院へはそこから通ってくれ。後の事は秘書に任せてある」
立木信之は振り返ることも無く、外来の診療時間が終わって人気のなくなった病院のロビーを、足早に歩き去って行った。
秘書が借りたアパートは、病院から歩いて十分ほどの賃貸マンションだった。利便性を重視して選んだ割には、まだ新しい綺麗な建物だ。
2LDKの部屋は、東向きで大きな窓がある。朝日が一杯に入って、晩秋を迎える季節には心地よい。
それは古参の秘書の、せめてもの好意だった。
担当医から、「癌が身体中に転移していて激痛に苦しんでいたから、薬で眠らせてある。抗がん治療は既に無駄な段階だ」と。説明を受けた。
死を待つばかり。そんなの母の病状説明だった。
「もっと早くに来院して下されば、治療の仕方もあったのに。残念です」
医師の言葉が、心に刺さって痛い。
涙を流しながら、やっと帰り着いたアパートの部屋で、パソコン音痴の栄達師匠に長い手紙を書いた。
程なく師匠から見事な達筆の返信が届き、翌日には銀座で画廊を経営する早穂子さんの夫の藤村英明氏が病室を訪ねて来た。
「栄達師匠から頼まれました」
分厚い札束の入った封筒を差し出して、母の病状と私の近況を確認した。
「お金が足りなくなったら、何時でも連絡して欲しいそうですよ」
「お母さんの看病を、しっかり遣ってあげなさい。後で悔いが残らない様に、頑張るんですよ」
私の手を力強く握って、励ましてくれる彼の優しさにまた涙ぐんだ。
「早穂子も心配してましたよ。何かあったら、私に連絡しなさい。出来るだけの事はしますからね」
最初のコメントを投稿しよう!