第一章  花音の“アメージンググレース”

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 「すみません。後でその辺のお店で買ってきます」  詫びる私に冷たい視線をくれた後で、秘書に買いに行かせた。  「お前の事は最初から、娘と思った事なんか一度も無い。それにお前の母親が倒れた以上、立木の家にお前の居場所は無い。だから帰って来ないでくれ」  「さっきも言ったが、咲姫の結婚が近いんだ。迷惑を掛けるな」  そこへ彼の古参の秘書が来たのを機に、立木信之の話は終わった。  「アパートの部屋を借りておいたから、病院へはそこから通ってくれ。後の事は秘書に任せてある」  立木信之は振り返ることも無く、外来の診療時間が終わって人気のなくなった病院のロビーを、足早に歩き去って行った。  秘書が借りたアパートは、病院から歩いて十分ほどの賃貸マンションだった。利便性を重視して選んだ割には、まだ新しい綺麗な建物だ。  2LDKの部屋は、東向きで大きな窓がある。朝日が一杯に入って、晩秋を迎える季節には心地よい。  それは古参の秘書の、せめてもの好意だった。  担当医から、「癌が身体中に転移していて激痛に苦しんでいたから、薬で眠らせてある。抗がん治療は既に無駄な段階だ」と。説明を受けた。  死を待つばかり。そんなの母の病状説明だった。  「もっと早くに来院して下されば、治療の仕方もあったのに。残念です」  医師の言葉が、心に刺さって痛い。  涙を流しながら、やっと帰り着いたアパートの部屋で、パソコン音痴の栄達師匠に長い手紙を書いた。  程なく師匠から見事な達筆の返信が届き、翌日には銀座で画廊を経営する早穂子さんの夫の藤村英明(ふじむらひであき)氏が病室を訪ねて来た。  「栄達師匠から頼まれました」  分厚い札束の入った封筒を差し出して、母の病状と私の近況を確認した。  「お金が足りなくなったら、何時でも連絡して欲しいそうですよ」  「お母さんの看病を、しっかり遣ってあげなさい。後で悔いが残らない様に、頑張るんですよ」  私の手を力強く握って、励ましてくれる彼の優しさにまた涙ぐんだ。  「早穂子も心配してましたよ。何かあったら、私に連絡しなさい。出来るだけの事はしますからね」
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