第一章  花音の“アメージンググレース”

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 3・  住職の栄達は、麓の山里から山寺へと続く一本道を歩いて来る若い娘を、山寺の山門に立って見ていた。  七十二歳になる彼の、たった一人の肉親を。今日、やっと手元に引き取るのだ。年の離れた、たった一人の姉が亡くなってから十五年。長い歴史をほこる六条院家の血を受け継いでいるのは、栄達を除けば、山道を息を切らせて登って来るあの娘だけになった。  この娘を引き取る為に長く暮らした本山を降りて、山寺の住職になってからずっと今日まで。この日が来るのを、待ち焦がれて来た。  十一年前にはあと一歩の処で、花音の母親が立木信之と再婚してしまい、母子を引き取る事が叶わなかった。  「二十歳になるまでは、手元で育てさせて下さい」  「立木信之さんも、娘を連れて嫁いで来ても良いと、望んでくれましたから」、二人を迎えに行った栄達に、涙をこぼして訴える花音の母親に負けた。仕方なく、あの時は山寺に帰って来たのだが。  然し、花音の母親は考えを変えたようで。二十歳の花音を栄達に託したのだ。  その昔。  栄達がまだ六条院秀人(ろくじょういんひでひと)と呼ばれていた少年だった頃。既に、六条院家は昔の栄光を失い、家運は傾き掛けていた。  母親を三歳で亡くした秀人(ひでひと)は、父親が再婚をしなかった所為で、八歳年上の姉が母親代わりになって少年時代を過ごした。  「姉さんは何時も、おっとりして優しいけれど、芯の強い女性だった」  老僧はこの頃になって、以前よりもずっと多く姉を思い出すようになった。  「儂も、年を取ったなぁ」、つい独り言が漏れる。  姉が音楽大学を卒業して、声楽の道に進もうとしていたその矢先だった。父親が株の取引に失敗して、多額の負債を背負い込んだのだ。  六条院家は破産。ショックから立ち直れぬまま父親は、心臓発作でこの世を去った。  まだ二十三歳だった姉は声楽家への道を諦めて、やっと十五歳になったばかりの弟を抱えて、女学校の音楽教師の道を選んだ。必死で彼を育ててくれた姉さん。  生まれた時からの許婚だった男に恋人が出来て、二十歳で破談になった姉にとって。実家の破産は、それに追い打ちをかけるような辛い出来事だっただろうに。
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