第一章  花音の“アメージンググレース”

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 何時も優しい微笑で栄達を包んでくれた姉が、今でも懐かしくて愛おしい。  美術大学への進学も、姉の薦めだった。  それなのに・・・彼は、姉を捨てた。  画業に行き詰って苦しんだ挙句の、辛い決断だった。  「水墨画を極めるためには、俗世を捨てなければならないと決心した。姉さん、許して欲しい」、涙を流して訴えた。  苦しそうに話す彼の背中を優しく押してくれたのも、その姉だった。  出家するために本山の山門を潜る彼を優しく包むような笑顔で送り出した後で、やっと巡り逢った恋人の胸に縋って泣いた彼の姉さん。  彼は悟りの境地を求めて、本山での修行に無心で明け暮れた。彼が暮らす僧房に、珍しく二年ぶりに届いた姉の手紙で、彼女の結婚を知った。  嬉しい筈なのに、大好きな姉を盗られたみたいに思えて、苦しい吐息しか出ない。そんな栄達を、「二十五歳にもなって、呆れたものよ」と大僧正が優しく諭した。  三十三歳の姉から間を置かず、『子供が産まれた』と知らせが来て、慌てて駆け付けたのが昨日の事のようだ。  「男の子なのよ。秀人の赤ん坊の頃にそっくりでしょう」  <嬉しそうに赤ん坊に乳を与える姉さんは、まるで慈母観音みたいだ>、思わず涙が溢れた。  「姉に自慢できる作品を必ず描いてみせる」、あの時に心に誓った。それまでは、何があっても決して本山を降りない決意だった。  栄達は一心不乱に、水墨画に没頭した。  気が付いてみれば、栄達は五十歳を超えたオジサンになっていた。画家の登竜門と言われる絵画展に何回も入選を果たし、やっと人に知られる絵描きになれたと思ったら、姉に会いたくて堪らなくなった。  「姉さん、会いに来たよ」  いきなりだった。長い時を隔ててやっと訪ねてきた弟に、嬉し涙の泣き笑いをした姉さん。  驚いたことに、もうその時には甥には嫁がいて、赤ん坊まで生まれていたのだ。  「ねぇ秀人、私の孫娘よ」  「名前は、花音って言うの。私が名付けたのよ」  <可愛くて堪らない>、と言って頬摺りして微笑んだ姉さん。  その赤ん坊が。今、山道を一生懸命に登って来るあの娘だ。  「姉さんの花音は、儂が必ず守るよ。だから安心してくれ」  栄達は早く花音を近くで見たいのに、娘は彼が山道のあちこちに植えたアジサイの前で足を止めては、見惚れている。  「こらッ、早く登って来い」  ジリジリして待っている老僧が、また独り言を呟いた。
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