第五章  “エチュード第3番・ホ長調” を、ぶっ飛ばせ

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 そんな夜が明け。今朝も不機嫌なまま出社したから、秘書や部下がビクビクしていた。  高嶋次郎との今夜の約束も、「如何でもいいから取り止めようか」なんて思っている僕を見越して、秘書が無理矢理に絹子の店に送り出したのだ。  来て良かった。  僕を見て、蒼くなった絹子。  「絹子を苛めて、気晴らしをして遣ろう」  「三年前の敵討ちだ。受け取れ」  ビジネス鮫の心が、「遣ったぞ」、と叫んだ。  席に隆仁を案内しながら、バーカウンターの中の花音に素早く視線を走らせた。奥に下がる様に、こっそりと合図を送ったのに。花音は氷を割るのに神経を集中していて、気付かなかった。  (困った。何とか手を打たなきゃ!)  高嶋次郎と握手をして、席に着いたが。  飲み物のオーダーを取ったボーイが、困った顔でバーカウンターの中にいる花音に聞いた。「お客様のオーダーが入ったブランデーですが、店に置いていない銘柄なんですよ」  花音は急いで買いに出ようとしたが、絹子から他の銘柄を出す様に指示が届く。まさか意地悪を仕掛ける為に、隆仁がソンナ罠を企んだとは思ってもいなかったのだ。(それは、普通は許される程度の事だった)  高嶋と隆仁が互いの力量を推し量って、沈黙のせめぎ合いをしている席にボーイが酒を運んで来る。  「ビッグなチャンスの到来だ。僕が頼んだ銘柄は、余程のバーテンダーを置いている店でなければ、普通は用意が無いからな」  「そこを突いて苛めてやる」  「僕の機嫌の悪い日に行き当たった、不運な絹子が悪いんだ」  ブランデーグラスを手に取り、軽く揺らして口に含んだ。  「これは僕が注文した銘柄ではない」、冷たく拒絶の呟き。  高嶋次郎が困惑した顔で、隆仁を見た。  隆仁が苛立たし気に席から立ち上がった。そのまま真っすぐにバーカウンターに歩み寄って行く。  「万事休すだ」  絹子は目を瞑った。  カウンターを挟んで、歩いて来る客に顔を向けた花音と、正面から目が合った。  
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