第一章  花音の“アメージンググレース”

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 花音は厳しい顔をした皺だらけの老僧が手招きをするので、何とか必死で最後の階段を駆け上がって、息を切らして彼の前に立った。  「よく来た。村からの道は辛かったか」、目の前の皺だらけな顔が笑った。  <解っているなら、聞くな>、と思った。  めちゃくちゃ息が切れる。  「ワシが栄達じゃ。お前の祖母さんの弟じゃよ」  矍鑠(かくしゃく)とした老僧は、しっかりとした足取りで。前をズンズンと本堂に向かって歩いていく。  また、必死で追い掛けた。  都会育ちの花音には、山道はとても険しくて身に応えたが、この老僧には絶対に気取られたくない。負けたくないのだ。  <気の強い娘じゃて。誰に似たのかの>、やっと引き取った娘の負けん気が、栄達にはとても嬉しい。  母親との手紙の遣り取りで、花音の事はほとんど全部知っている。  立木信之の邸でどんな扱いを受けて育ったかも、知っている。  「(ひね)くれておるかもしれんな」  多分に、心配していた。  <大学を休学までして、立木信之の邸を出て来た娘の心底を、探って見ねばならん>、とも思っていた。  だが暫く一緒に暮らす内に、娘が意外と江戸っ子気質で逞しい心根の娘だと知った。  「中学の時に転向した学校で親友になった()がね、下町の女の子で、江戸っ子のおきゃんだったの」  「私も、そうなりたかった」  「でもその親友とは、高校に進学する頃に離れ離れになっちゃた」、と言って悲しげな顔をした。  北野絹子(きたのきぬこ)と言うその少女の境遇を聞いて、幼い少年の日の彼が重なった。  「お前がその娘の事を忘れなければ、何時かきっと、また逢えるじゃろう」  「御仏の慈悲を、信じる事じゃて」  栄達の言葉に頷いて、一杯涙を流した。  そのことが在ってから、花音は栄達に心を開いて甘えるようになった。  花音は彼を、師匠と呼ぶ。  「師匠はお祖母さまと、同じ匂いがする」  何の躊躇いもなく彼の懐に飛び込んで来る娘に、一緒に暮らして三月も過ぎる頃には、栄達も実の娘のような愛着を感じるようになっていた。
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