第30回 久米三十六姓と、遊郭の女流歌人

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 その後、福建からの後続渡来者、首里・那覇士族から迎え入れた人たちも含めて、〝久米三十六姓〟と呼ぶようになった。住んでいたのが久米村(くにんだ/今の那覇市久米)だったからだ。三十六の姓の人たち(つまり36人)が渡来してきたわけではなく、三十六は中国で「とても多い」という意味で、大勢が来たことを示した呼称だ。300年続いたという説もあるが、1392年から廃藩置県の明治初期までという説だと、500年近い。  あの琉球王国屈指の政治家、蔡温(さいおん)も久米士族だ。蔡温は異例の三司官に就任した人。久米三十六姓は、多くの政治家や学者を輩出した。  その後、いろんな人や本で久米三十六姓の話を探ってみると、「位が高いので、プライドを持っていて、それが受け継がれた地域」という。琉球王府を支えた大臣などはほとんどが久米三十六姓だ。「子供の頃から漢文の素読ができた」という人もいる。伝統も教育も受け継がれていた地域なのね。 「今は沖縄の人と結婚して(たぶん明治以降と思う)血が交わっているが、今でも門中はある」とのこと。ちなみに仲井眞弘多(なかいまひろかず)元知事も久米三十六姓の家系。 オレ「久米に偉い人たちが住んでいたから、近くの辻が風俗的に栄えたのですかね?」  いろんな人にそう聞くと、肯定する意見も多い。ちなみに辻は、同じ那覇市の久米の隣町で、風俗街なのだ。     
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