3人が本棚に入れています
本棚に追加
うわごとのように水、水と繰り返す真珠の声は、みるみるうちに文字通りうわごとへと変化していった。ふたたびすうっと目を閉じたのを確かめると、雪里先生は僕をまっすぐに見て言った。
「今晩だけはついていてあげて。頼んだわよ、瑠璃也君」
整形外科病棟、403号個室。冷暖房はもちろんユニットバスとカード式テレビ完備のワンルームだ。地元の大学に通う僕が独りで住む里ヶ丘四丁目のアパートよりも、格段に良い部屋である。もっとも状況が状況だけに、快適にくつろげる気はまったくしなかったし実際その通りだったが。
真珠は静かに眠り続けた。
オレンジ色のラインが入った白い加圧ソックスの上から装着された血栓予防の空圧マッサージ機がぷしゅう、ぷしゅうと延々音を立て続ける中、一時間おきか、看護師が代わる代わる定期的に痛み止めの注射を打ちに来ることで僕はどうにか時間を把握することができた。
静脈をさぐるために壁から伸びるアーム式のライトが点けられ、手術着のノースリーブからあらわになった腕に刻まれたおびただしいリストカット痕が煌々とした明かりに浮き上がるたび、僕は雪里先生の言葉を思い返していた。
――傷あとから目を背けないであげて。
午前二時を回り、なんというか、決心がついた。注射を終えた看護師が退室したのを見計らって、僕は付添人用のスツールを思い切りベッドに寄せ、真珠の方に身を乗り出した。
左利きのせいか右手を切りつけた痕の方がやや多いが、どの傷も手首というよりは肘に近い内腕部に集中している。理由は明白だ。家族や僕、友人たちに悟られないため、それでいてカミソリを入れやすい場所、そういうことだろう。どこまでも孤独な行為だ。
縫合痕がくっきりとしていちばん目立つひとすじに、おそるおそる指を這わせると、真珠の腕は死人のように冷たかった。思わず白い手をとり、指を絡ませて両手で握った。ひとときでいい、何も知らぬふりをした愚かな僕のぬくもりが、真珠をすこしでもあたためますように。
と。
「……たしかめるの」
「え、」
不意に発せられた真珠のつぶやき声は、それにしてはりん、と鈴のように個室の天井まで反響した。突然のことに二の句が継げないでいる僕に、真珠は痛々しいほどに明るい微笑みを向けた。
「はじめて、だね、こんなふうにするの」
「……起きてたのか、」
「ちがうよ、起きたの。ルリの手があったかくて」
最初のコメントを投稿しよう!