第1章

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「そんなことないだろ、」  ありきたりな台詞は、もはや真珠には届かない。熱にうかされたように、かさかさに乾いたくちびるは言葉を紡いだ。 「リセットしたかったの。もうひとりのわたしが言ったの。疲れただろう、もう、終わりにしよう。新しい世界に行こうって」 「馬鹿なこと、言うなよ……」 「そう、ルリのいうとおり、わたし馬鹿だから、別世界にはいけなかったの、死ねなかったの。世界はわたしを、見捨てたの。もう居場所なんて、どこにもないの、どこにも。だから――かなしいの」  世界に見捨てられて泣きじゃくる、子どものような真珠。  いったい何て、声をかけたらいいのだろう。誰か、誰か、どうか教えてください。  呆然としていると、看護師がふたりやってきた。「邪魔よ」。太ったベテラン風の方が僕の片腕をとって強引に後退させ、流れるような動作で真珠の長い黒髪をヘアゴムで無造作にくくった。 「シンジュちゃん、時間よ、行きましょうねぇ」  当人が泣いているというのにお構いなしだ。  カシャン。慣れた様子でふたりはナースシューズのつま先を使い、キャスターのストッパーを外す。  ベッドごと運ばれてゆく真珠を、僕はただ黙って見送ることしかできなかった。    *  午前九時半から始まった真珠の手術は六時間にも及んだ。僕はそのあいだ手術棟の家族控え室で窓際のソファに座ったまま、ただぼんやりと時をやり過ごした。あっという間だったとも、果てしなく長い時間だったとも記憶している。要するに、曖昧だ。  正午頃、いちどだけ雪里先生が姿をあらわした。 「お疲れさま」ソファの後ろから声をかけられて振り返ると、先生はホット珈琲のプラカップをひとつずつ両手に携えていた。「飲む? ホスピタルモールの自販機の珈琲だけど、一杯ずつドリップするからけっこう美味しいの」  カップを片方、ずいとこちらへ差し出す。飲む? というか「飲め」というような仕草だ。逆らえない。 「いた、だきます」  受け取って素直に口をつけた。珈琲は嫌いではない。が、プラ製の飲み口から流れ込んできた液体は、ひどくひどく甘く感じた。思わず顔をしかめると、雪里先生は涼しげな顔ですこしだけ笑った。 「どうせ昼食なんか摂る気分じゃないんでしょう。糖分だけでも補給しておきなさい」 「あと、どのくらいかかりますか」
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