蝉時雨

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蝉時雨が耳をかき乱す季節。 悶えるような苦しみと苛立ちが俺を包む。 父が蒸発した10歳の年。 母と二人で公園近くの狭い部屋に引っ越した。 生活は、惨めなものだった。 母は、昼間から酒を飲み、夕方になると夜の仕事にでかけた。 食事は、僅かな金を渡され、パンやおにぎりで飢えを凌いだ。 しかし、母を責める気にならなかった。 父の写真を見て泣いてばかりの母を哀れと思いこそすれ、憎む事は出来なかった。 公園で、鳴く蝉たちの声と母の鳴き声が、混じり合った騒音は、俺の心を締め付けた。 俺たちを捨てて居なくなった父を呪った。 そいつの頃からだろう。 蝉時雨が聞こえると、母の鳴き声が混じり合って聞こえるようになった。 母の姿は、無い。 胸が苦しく、呼吸もままならない。 俺は、いつも逃げるように、蝉から離れた。 何年かして、アパートに小柄で太った男が訪ねて来るようになった。 そうすると決まって母に考えられないほどたくさんのお金を渡され、外で夕方まで遊んで来いと言われた。 中学生にもなれば、だいたいわかる。 店の常連の客と、デキたようだ。 羽振りのいい男らしく、やがて母と俺は、広いマンションに引っ越した。 そして、母は働かなくなった。 どうやら、愛人になったということか。 それでも、母は泣かなくなったし、酒の量も減った。 よかったのかもしれない。 俺は、寮生の高校を選んだ。 愛人の巣に住んでいるのが嫌だったし、新しいマンションも公園が近くて蝉時雨が俺を苦しめたからだ。 どんな高校でもよかった。 高校3年の初夏。 母は、死んだ。 愛人に捨てられた母は、当てつけのように、与えられたマンションで首を吊った。 母の親戚の好意で高校は、卒業させて貰えることになった。 母の荷物の殆どは、処分してもらった。 何もかもいい思い出は、ないからだ。
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