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 坂本は、ねぎらうように佑志の肩を叩いてオフィスを出て行った。通販カタログ課でもっとも温和な性格の坂本を、佑志は嫌いではなかった。ときおり、早く結婚しろと諭されることもあるが、他の上司や同僚のように、三十七歳で独身である自分を物笑いの種にすることなく、本心で心配してくれている気持ちが伝わってくるので、うとましく感じることはなかった。  席に戻ると、佑志は、机に積まれた校正紙の山を校了日順によりわけながら、さりげなく営業課のようすをうかがう。壁の時計は午後四時を指していた。川瀬ひとみの席のノートパソコンは閉じられたままなので、まだ外回りから戻っていないのだろう。  佑志の席は、オフィスのドアを開けたすぐのところだ。人の出入りが激しく落ち着かない、とたいていのスタッフはこの席を嫌がる。だが、物事に入りこみやすいたちの佑志は特に気にならなかった。むしろ、川瀬ひとみが入社してからは、春先のレイアウト変更でこの席に変わったことを幸運にすら思うようになっていた。オフィスにはドアは一つだけなので、外回りの行き帰りや退社の際、川瀬ひとみは必ず佑志のそばを通っていく。そのたびにほのかな甘い香りが佑志の鼻孔をくすぐる。それが彼女の長い髪からたちのぼる香りなのか、もしくは香水の類によるものなのか、女性との交際経験に乏しい佑志には判断がつかなかったが、その香りは佑志のこころをほんのつかのまほころばせてくれる。  この席の利点はそれだけではない。机に向かうと、視線の先がちょうど川瀬ひとみの席なのである。背を向けているので顔は見えないが、佑志にとってはむしろその方が好都合だった。かすかに茶色がかったつややかな髪が空調の風にゆらぐようすや、腰のあたりの丸み、スーツのスカートからのぞく形のよいふくらはぎを気づかれることなく鑑賞することができるのだ。  ひっきりなしにドアが開いては閉じ、何人ものスタッフが行き来する中、修行僧のように身動きすらせず、デスクにつっぷして校正紙をにらみ続けていた佑志は、窓の向こうが朱色に染まり始めたころふと顔を上げた。ドアが開き、足早に佑志の脇を誰かが通り過ぎていった。川瀬ひとみだった。理由は自分でも説明できないのだが、佑志にはドアが開いた瞬間にわかるのだ。
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