6/32
前へ
/32ページ
次へ
 川瀬ひとみがパソコンの電源を落とし、ペットボトルから腕時計をはずして立ち上がった。校正紙に目を落としたままだが佑志にはそのことがわかっている。上司に挨拶したあと、いったんロッカールームに消え、バッグを手にしてふたたび現れた川瀬ひとみが、たったひとつしかないドアに向かって、つまり佑志の方に近づいて来た。佑志は、さりげない風を装って顔を上げる。佑志の手前でいったん足を止めると、「お先に失礼します」とていねいに頭を下げる。佑志は、緊張でこわばる頬になかばむりやりに笑みを浮かべ、くぐもったとおりの悪い声が少しでも快活に響くようトーンを高めに意識しながら、「お疲れ様でした」と返す。手にしたペットボトルを壁際のゴミ箱に捨て、川瀬ひとみがオフィスを出て行くと、儀式は終わり、佑志は帰り支度を始める。  退社時の川瀬ひとみは、たいてい特に楽しそうでも憂鬱そうでもない、いわゆる無表情なのだが、ときおりうっすらと笑みを浮かべていることがある。まれに、恋人を前にしたような、満面の笑顔のときもある。そんなとき、特別な意味はないとわかっていながらも佑志はうきうきした気持ちになる。そうかと思えば、すこぶる不機嫌そうで、挨拶のことばさえけだるそうな日もある。そんなときは、何か自分が原因で彼女が気分を害しているのではないかと佑志は不安になる。地味なわりには、表情が豊かに変わる女性のようで、昨日と今日で別人に見えることがあるほどだ。頭を下げる際に、必ずいったん足を止めるところが、品のよさを感じさせた。あわただしく業務に追われているときでもどこかゆったりとした雰囲気に包まれており、レンガをひとつひとつ積み上げるように一瞬一瞬を大切に過ごしているふうで、そんなところがものごとにじっくりと取り組むことを好む佑志の心の襞にしみこむのかもしれない。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加