興福寺堂衆修行

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有力な寺は、まさに現代の大学の位置付けであって、まじめに仏道を学ぼうとする者はいても少数で、多数は学歴取得をめざすように、僧の資格を取り、あるいは自らの履歴に箔をつけようとする者であっただろう。興福寺や奈良の大寺には、大きな僧坊という棟があり、身分の高い貴族出身の学侶や、程々の身分の家からきた者、そしてそれ以外すなわち堂衆まで、数百人規模の生活する宿舎となっていた。無論、身分により、それぞれに与えられる間取りが変わる。身分の違いは、生活上の待遇は当然のことながら、同じ僧といえど、仏教に対する捉らえ方も異なれば、教わる中身も期待される役割もまったく異なるのである。したがって、一見まじめぶった学僧・学侶たちと粗暴な堂衆達との間でいざこざが起こるのはまったく日常であった。 しかも、この頃、既に南都の諸寺には平家の奢り昂ぶる諸施策に対して、反感が募り、血気に逸る堂衆のみならず、「お寺」をして、反平家として武力蜂起しようという動きがすでに生まれていた。 本来、仏道にどこまで沿っているやら怪しく、厄介者に思われてもしかたのない堂衆達が、今では、いざという時の、文字通り「戦力」として頼る部分が明確になってきていた。学僧・学侶が鼻持ちならない差別意識を露骨に出し、教養の意味をはき違えているのに対し、悪さばかりしているように見えて、地に足をつけた生活を確保し、寺を守るため平家にすら対峙しようという堂衆の方が、運慶にもまともに見えたのである。 この堂衆社会は、やんちゃ者の運慶にはピッタリの環境で、水を得た魚のようにイキイキしていた。当初こそ、腕力のある輩に押さえ付けられたり、時にはコテンパンに叩きのめされたりしていたが、二月もすると、有力どころと親しくなり、一年余もすると、体躯の成長もあり、<骨のあるヤツ> として認められ、運慶は徐々に「若頭」的地位を占めるに至った。
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