成朝と重源

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成朝と重源

初冬のある日、造仏所に戻ってしばらくのこと、運慶は、東大寺の法華堂(いわゆる三月堂)で、仏像にただならぬ視線を注いでいる男を見た。 男は成朝という。歳の頃は、三十前後。運慶より十かもう少し上である。 運慶が十間ほど離れて眺めていると、その視線に気づき、じっとこちらを睨み返したが、すぐ柔和な表情になり、軽く会釈をしたように見えた。運慶は、その男を知らなかったし、自分に頭を下げたとも思えなかったので、チラチラと左右に視線を泳がせたが、そのまま眺めていた。 成朝は、また仏像に向き合い、真剣なまなざしを向けているように見えた。 仏像を拝んでいるのではなく、それほど興味があるとすると、その筋の人ということになるが、運慶は、自分も造仏所で修行中の身であるし、棟梁の息子である。まだ、業績はないが、何も作らなくたって、造仏に対して漠とした自信がある。というか、負けたくない、と思っている。 「むむむ。」 と、いくらか、いきり立っていると、後ろから墨染めの袈裟を着た老僧が現れた。 「あ、あれは・・。」 若くして醍醐寺に入門し、今は高野山を拠点として霊地名山を行脚し、各地で仏法を説き、造寺造仏・鐘楼等に結縁勧進して廻っている“聖”(ひじり)、重源である。東大寺にもよく立ち寄ったり、しばらく逗留することがあった。 重源は、この時すでに三度、宋に渡っていた。地位・名誉にこだわる様子はなく、諸国行脚する際には"乞食"のような姿となることもあるが、京の都や南都では、新進で気力旺盛なる高僧としてすでに知られる存在となっている。宋での堂建立の経験もあり、建築や造仏の技術にも詳しい。 成朝も気づき、恭しく頭を下げた。 「これはこれは、重源聖人様。」 「成朝か。しばらくじゃの。」 「は、お寺様には御厚誼を賜っております。」 そうか、あれが成朝か。 成朝は、始祖定朝の直系の造仏所を受け継ぐ若棟梁である。定朝は、平安以降の造仏の規範となっており、その絶妙なる量感と巧みな造形に、運慶や父康慶も尊敬してやまない先達であり、自分達の系譜の確固たる始祖である。その上は、はるか天平仏しか仰ぐものがない。 父康慶は、成朝をよく知っているだろうが、運慶は、まだ造仏所の正式な仏師の扱いになっていなかったために、きちんと挨拶したことすらなかったのである。
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