成朝と重源

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この頃、貴族の社会から平家の台頭する時代にかけて、藤原一門、皇族・朝廷の関係者や各地の有力者からの造寺・造仏は非常に多く、白河院などは二十一の堂塔を作る程であった。特に、京都の権力に近い院派(院覚、院尊など)や円派(長円、明円など)の造仏所は大変な数の造仏依頼に応えねばならなかった。ひどいときには、新しい伽藍を開くためと、一年ほどの間に各堂塔に配置する本尊、脇侍、天部など百体を越す御仏を造れ、といってくる。それも、誰々の供養のためと、いかにも見栄え良く仕上げてほしいという旨が伝えられる。造る仏師側の事情はあまり忖度されない。忖度されないというより、有力者達はそれぞれ縁故の造仏所や仏師とのつながりが強くなってきており、依頼者や供養する相手をいかに持ち上げるか、下衆な言い方をすると、そのような媚びと迎合が蔓延ってきていたといえる。仏師は誠意を持って彫り、造る。しかし、造られた仏像は、安定化や没個性化が進み、高い格式を示すための象徴化、よく言えば、ある種の規範化となってしまっていたのである。 この傾向は、京都の仏師のみならず、南都奈良の成朝や康慶もほぼ同様であった。ただ、彼等は、院派や円派の繁忙を快く思わないために、彼らの弱点に多少、敏感なだけである。 成朝は、もしかしたら院派か円派に、忙しくて依頼主の要望に応えられないからと、助(すけ)をしてくれと頼まれたのかもしれない。仕事の少ない成朝の造仏所にとって、ありがたくない働きの誘いを受け、仏師としての浮沈がかかるような事態にあるのかもしれない。 重源は、まだ困った顔つきの成朝をみて、言葉を足した。 「仏師も絵師も、堂塔を作る大工も、皆、夫々の技を尽くそうとしておることは確かじゃな。そこに迷いもあろう。我等には分からぬが、中には誤りのような仕事もあったやもしれぬ。しかし、お主らは、とにかく造らねばならぬ。工房や棟梁の毀誉・盛衰は、歴史からは消え去るように思えるの。」 「まこと、仏師は尽くすのみでござる。」 成朝は、納得はいっていないが、多少見栄を張って、そう答えた。 「運慶、お主は、何か良いものを造りたくて造りたくてしようがない、という顔をしておるの。はは、それもよかろう、そういう仏師もおったであろうからの。」
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