超絶技巧の男

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ある時、運慶は快慶に聞いてみた。 「快慶よ、天平の時代の御仏はなぜ、あのように力強く、生き生きとしてると思うか。なぜ、あのような見事な造仏ができたと思うか。」 運慶にとって、長い間、疑問に思っていたことであった。早い時代になぜ、むしろ後の時代より、あのように明瞭に優れた姿容を描き出せているのか。運慶は、他の者も同じように疑問に感じているだろうと思い込んでいたのだが、予想に反して、快慶はかなり明瞭に答えた。 「天平の先達は、御仏の教えに帰依する気持ちが強かったのだと思います。そして、如来様や菩薩様がどのようにして人を救うか、悟りや善行を遮ろうとする魔に対してどのように闘うか、はっきり見えていたのではありますまいか。」 その見方が妥当かどうかはわからない。ただ、<手技ではない部分である> と、あっさり答えられたので、運慶はバツが悪くなり、取り留めのない問いを投げかけた。 「本当の造仏は毘首褐魔でもできないといわれるが、我々には当然できぬかの?」 毘首褐魔天とは、「仏説大乗造像功徳経」などに出てくる、初めて仏像を形にしたといわれる仏神である。御仏は、数十世、数百世に渡って善行を重ねてきている。その深みの徴を、他の者は、毘首褐魔といえど容易に窺い知ることができない、そんなことを意味する。ただ、運慶もよく知らない。 快慶は笑いながら答えた。 「ははは・・。毘首褐魔の神様がどのように仏様の姿を再現しようとなさるか、私は知りませんので、何とも言えませんが、できる・・のではないでしょうか。一つの仏像では難しいでしょうが、お堂や背景を工夫し、その仏像にまつわる講話や霊験譚が伴うようになれば、あるいは・・。人には、足りないものを想像で補って見るというところがあると思いますので・・。」 笑ってはぐらかしているが、これも、<できる> と言っている。並の者に言えることではない。運慶は、快慶の造詣の深さに感じ入った。手技のことばかり考えている自分にはないかも知れない、と。
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