興福寺堂衆修行

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興福寺堂衆修行

運慶が、造仏所で、少しずつ造仏修行に励むことになっていた数え十三の頃になっても、いや、十五になっても、近所はおろか、遠くまで出かけてもケンカや悪戯騒ぎが絶えないので、父康慶は、お寺(興福寺)に、小坊主に出すことにした。すなわち、下働きに使ってもらうように頼んだ。 元々、南都の諸寺は、皇族や藤原氏を初めとして有力豪族の庇護を受けていることもあり、多くの高僧、学僧が在籍し、そして寺に学ぶという名目で実際には、寺の生活の賄い一切を行う修行僧が数多くおり、色々な事情で主に若い者が入ってくるのだった。寺での作務には、仏殿の掃除と供養、寺域の草取り・掃除、庭の手入れ、建物の床磨き、水汲み、薪・柴運び、飯炊き、味噌・酒造り、漬物作り、洗い物から建物の小修繕まで、まさに多様である。また藤原氏の氏神である春日のお社への社参も勤めの一つであった。 彼らは、いわゆる「堂衆」といわれる男達の社会で、寺の中では最下層であるが、最も数多く、集団の力を誇示していた。そして、「堂衆」の中では、腕力にものを言わせ、動物のような日常のせめぎ合いから確固たる上下関係が出来上がっていた。中でも、立正坊、千寿坊、童仙房、永覚、多聞、群雲などは、子分を引き連れ、頭か将のような振る舞いをしていた。もちろん、運慶は堂衆の中で一番若い部類だった。成り上がるには、これらの将らと、あるいは中堅と腕力で対抗していくしかなかった。 堂衆は、最初は一応、寺の作法に基づいて生活し、作務をこなしていくが、それこそ、老僧の説教を聞くわけでもなく、座禅をするわけでもなかった。「僧」の端くれであったかもしれないが、実態は単なるお寺の支援業務部隊といえる。そればかりか、僧としてきちんと得度を受けてすらいないものもあり、警備や兵役を旨とするものや、飯を食うためにだけ集まっている者さえあり、これらが徒党をなしている風さえある。
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