木津

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木津

お寺(興福寺)と東大寺の間に南北に走る通りを東七坊大路といい、この道は、南へは上ツ道(かみつみち)と言われる古代の幹線道路で、三輪、山田道へとつながっている。また、北へは佐保川を越え、「奈良坂」という緩やかな峠を経由して、木津に至る道につながっている。 木津は、その名の通り、木の津、すなわち港である。天平の頃、平城京の建設とその中の諸大寺の建設にあたって、大量の木材およびその他の資材が泉川の水運を使ってこの港へ運び込まれたのである。奈良の都、平城京は、この川の水運を当てにして作られた都市計画であった。泉川は、現在の「木津川」である。 木津川は、上流は東の伊賀に向かう。一方、木津から北に流れを変えて下ると、現在はもうない「巨椋池」という大きな湿地帯に至る。、巨椋池の北側には、鳥羽院(離宮)と港が作られ、鳥羽の作り道といわれる広い道が今日の都へとつながっている。巨椋池には、東の琵琶湖から下ってくる急流の宇治川、北からは京の都を流れてくる鴨川、西北からは嵯峨・嵐山から流れてくる桂川(保津川)が合流する。そこからは、ゆったり大きな淀川の流れとなって難波の海に至る。木津川は、平安時代には泉川という旧い名と共に「木津川」という新しい呼び名も使われるようになっていた。 とくに、日本で最大の建物である東大寺の大仏殿やその他の建物の建設には、とてつもない量の木材や資材が使われ、それらのほとんどが木津の港から陸揚げされた。木材は、木津川の上流、南山城や伊賀、信楽から水運を利用して下り、また、当然それだけでは足りないために、全国から、泉川(下流の現在の呼び名は淀川)の、水量豊富でそれほど高低差のない好条件を生かして遡って難波から運ばれてきたのである。 木材以外の建設資材としては、銅や鉄などの金属、石、砂、粘土、竹など、米、塩、魚、芋・青菜などの食料、炭、薪、柴、松明などの燃料、和紙や布・織物、油や漆など多岐にわたる。
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