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あ然として、バックミラーに映る井上を凝視した。鏡の向こうの井上が、フワリと微笑む。
「あ、目が合った」
少年のような笑顔で喜ぶ井上に、穂積はしまった、と焦る。
そんな笑顔は――反則だ。抑えられない胸のトキメキに慌てるが、すでに手遅れだ。
穂積は、井上に腹を立てている。妻帯者のくせに、気をもたせるような接触を度々図ってきて、穂積が突っぱねてもしつこく迫ってくる。
穂積は決して、恋愛経験が少ない方ではない。妻一筋だった井上より、おそらく多くの男と付き合った。それなのに、この体たらくはなんだ、と自分にも怒りを覚える。
ノンケの既婚者に、いいように感情を振り回されて、穂積の憤りは井上にも自分にも、激しくなるばかりだった。
しかし、井上の笑顔一つで――こんなにフワフワとした甘い気分になってしまうのだから、それが一番悔しい。
井上は、穂積の内心の葛藤など気づいていないのか、それとも気づいていながら冷酷にも無視しているのか、甘い笑顔でさらに誘惑の言葉を囁き続けた。
「今度こそ、俺に奢らせて下さいよ。……話したいことがあるんです」
話したいこと――その短い言葉に、期待する自分が嫌だった。
二週間前、井上は自分になんと言ったのか覚えていないのだろうか。
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