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暗く沈んだ穂積に、井上が慌てる。井上は賢明な上に――優しいのだ。それがまた切ない。
「井上さん、俺、井上さんを信じてます。あなたを信じて話すので……ここだけの話にしてくださいね」
穂積はミラーを見て、無理やり微笑んだ。
「俺は、先輩とは違います。男性しか……愛せないんです」
一瞬で、車内の空気が凍りついた。穂積はたまらず下を向いた。
井上は優しい男だが、上司からのゲイだというカミングアウトは、相当きつかったのだろう。言葉を失い、無言でハンドルを握っていた。
井上に引かれてしまった、と思うと悲しかったが、これでよかったのだと、穂積は安堵してもいた。
井上との駆け引きめいた、甘酸っぱい時間もこれで終わる。それは寂しいけれど、もう井上に翻弄されることはない。
既婚者のノンケに振り回されるのは、これ以上ごめんだ。穂積は、誰にでもなく自分に、そう強がった。
心のどこかで、兄の言葉が聞こえる。
素直になりな――。
泉は無責任にそんなことを言ったけれど――穂積にはできそうになかった。
井上には、家庭がある。なにより、ここまでハッキリ拒絶されて開き直れるほど、穂積は強くなかった。
本部の地下駐車場に着くまで、井上は一言も口を利かなかった
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